------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ 例 黒須《くろす》 太一《たいち》 【読み進めるにあたって】 ストーリーは 1,「CROSS†CHANNEL」からはじまります。 順番はこの下にある【File】を参照のこと。 このファイルは CROSS†CHANNEL  2,「CROSS POINT(2周目)」 です。 ------------------------------------------------------- FlyingShine CROSS†CHANNEL 【Story】 夏。 学院の長い夏休み。 崩壊しかかった放送部の面々は、 個々のレベルにおいても崩れかかっていた。 初夏の合宿から戻ってきて以来、 部員たちの結束はバラバラで。 今や、まともに部活に参加しているのはただ一人という有様。 主人公は、放送部の一員。 夏休みで閑散とした学校、 ぽつぽつと姿を見せる仲間たちと、主人公は触れあっていく。 屋上に行けば、部長の宮澄見里が、 大きな放送アンテナを組み立てている。 一人で。 それは夏休みの放送部としての『部活』であったし、 完成させてラジオ放送することが課題にもなっていた。 以前は皆で携わっていた。一同が結束していた去年の夏。 今や、参加しているのは一名。 そんな二人を冷たく見つめるかつての仲間たち。 ともなって巻き起こる様々な対立。 そして和解。 バラバラだった部員たちの心は、少しずつ寄り添っていく。 そして夏休み最後の日、送信装置は完成する——— 装置はメッセージを乗せて、世界へと——— 【Character】 黒須《くろす》 太一《たいち》 主人公。放送部部員。 言葉遊び大好きなお調子者。のんき。意外とナイーブ。人並みにエロ大王でセクハラ大王。もの凄い美形だが、自分では不細工の極地だと思いこんでいる。容姿についてコンプレックスを持っていて、本気で落ち込んだりする。 支倉《はせくら》 曜子《ようこ》 太一の姉的存在(自称)で婚約者(自称)で一心同体(自称)。 超人的な万能人間。成績・運動能力・その他各種技能に精通している。性格は冷たく苛烈でわりとお茶目。ただしそれは行動のみで、言動や態度は気弱な少女そのもの。 滅多に人前に姿を見せない。太一のピンチになるとどこからともなく姿を見せる。 宮澄《みやすみ》 見里《みさと》 放送部部長。みみみ先輩と呼ばれると嫌がる人。けどみみ先輩はOK(意味不明)。 穏和。年下でも、のんびりとした敬語で話す。 しっかりしているようで、抜けている。柔和で、柔弱。 佐倉《さくら》 霧《きり》 放送部部員。 中性的な少女。 大人しく無口。引っ込み思案で、人見知りをする。 でも口を開けばはきはき喋るし、敵には苛烈な言葉を吐く。 凛々しく見えるが、じつは相方の山辺美希より傷つきやすい。 イノセンス万歳。 桐原《きりはら》 冬子《とうこ》 太一のクラスメイト。放送部幽霊部員。 甘やかされて育ったお嬢様。 自覚的に高飛車。品格重視で冷笑的。それを実戦する程度には、頭はまわる。 ただ太一と出会ってからは、ペースを乱されまくり。 山辺《やまのべ》 美希《みき》 放送部部員。 佐倉霧の相方。二人あわせてFLOWERS(お花ちゃんたち)と呼ばれる。 無邪気で明るい。笑顔。優等生。何にもまさってのーてんき。 太一とは良い友人同士という感じ。 堂島《どうじま》 遊紗《ゆさ》 太一の近所に住んでいた少女。 群青学院に通う。 太一に仄かな恋心を抱くが内気なので告白は諦めていたところに、先方から熱っぽいアプローチが続いてもしかしたらいけるかもという期待に浮かれて心穏やかでない日々を過ごす少女。 利発で成績は良いが、運動が苦手。 母親が、群青学院の学食に勤務している。肝っ玉母さん(100キログラム)。 桜庭《さくらば》 浩《ひろし》 太一のクラスメイト。放送部部員。 金髪の跳ね髪で、いかにも遊び人風。だが性格は温厚。 金持ちのお坊ちゃんで、甘やかされて育った。そのため常識に欠けていて破天荒な行動を取ることが多い。が、悪意はない。 闘争心と協調性が著しく欠如しており、散逸的な行動……特に突発的な放浪癖などが見られる。 島《しま》 友貴《ともき》 太一の同学年。 元バスケ部。放送部部員。 実直な少年で、性格も穏やか。 激可愛い彼女がいる。太一たち三人で、卒業風俗に行く約束をしているので、まだ童貞。友情大切。 無自覚に辛辣。 【File】 CROSS†CHANNEL  1,「CROSS†CHANNEL」  2,「崩壊」 CROSS POINT  1,「CROSS POINT(1周目)」  2,「CROSS POINT(2周目)」  3,「CROSS POINT(3周目)」 たった一つのもの  1,「たった一つのもの(1周目)」  2,「たった一つのもの(2週目)」  3,「たった一つのもの(大切な人)」  4,「たった一つのもの(いつか、わたし)」  5,「たった一つのもの(親友)」  6,「たった一つのもの(謝りに)」  7,「たった一つのもの(Disintegration)」  8,「たった一つのもの(弱虫)」 黒須ちゃん†寝る  1,「黒須ちゃん†寝る」 ------------------------------------------------------- CROSS†CHANNEL  2,「CROSS POINT(2周目)」 最古の記憶は。 日付さえおぼろげな、遠い霞のなか。 貴族的な気品を抱く、豪華な私室。 そこには天蓋つきの寝台も欧羅巴製の椅子もあった。 けど床に座るのが一番好きだった。 こんな日は特に。 窓から見える黒の帳は星月夜。 枠に切り取られた散在する瞬きに目を奪われる。 外界と室内を隔てる窓ガラスに、己の姿が映る。 深窓の令嬢——— 洋風のドレスに身を包む、楚々とした少女。 きみはいったい、だれですか? CROSS†CHANNEL 崩壊寸前だった放送部の面々を集めて、合宿にまでこぎつけた。 大変な苦労があった。 放送部の正式な部員は現在のところ、 支倉曜子 宮澄見里 黒須太一 桜庭浩 島友貴 桐原冬子 山辺美希 佐倉霧 の八人。 この八人……合宿前段階で断絶の関係にあった。 まず曜子ちゃんは他人に興味ないので、部活になんて参加しない。 桜庭はもともと放浪癖があって、定期的に部活に来るなんてのはありえない。 島はみみ先輩といさかいを起こして冷戦中。 冬子は俺と冷戦中。 美希は愛想だけは良かったが、霧につきあって部とは距離を隔てた。 霧は俺のこと嫌っているし。 その俺もなんとなくサボっていたし。 みみ先輩が一人で、様々な処理を片づけていたらしい。 俺は奮起し、皆を集めた。 多少強引な手段でだ。 去年の海水浴も、似たような手を使った。 一度引っ張り出せばこっちのものだ。 例年実施されていた夏合宿を敢行に至らしめた。 ……大失敗だった。 教員に内緒でやったこともあるのだが。 友貴『……姉貴のせいだろ!』 霧『不愉快です』 美希『……やめよぅよー、けんかーはー』 太一『ちょ、ちょ、だますとかだまされるとかでなくてさ!』 冬子『騙したんでしょ!』 見里『だから……いやだったんです……みんなでなんて』 揉めた。 何も成し遂げられることはなかった。 人間関係はそのまま。 むしろ、はっきりと浮き彫りにされただけで。 悲嘆と苦痛のうちに合宿は終わってしまった。 数日間、俺たちは互いに言葉なく過ごした。 単体で会えば、まだ会話もできる。 けど複数の疎遠な人間関係が、多重になって、雰囲気は最悪だった。 今回、みみ先輩の力を借りていた。 おかげで先輩の信頼まで、なくしてしまうことになって。 先輩は俺をどう思っただろうか。 七人は帰路に就いた。 俺は見たくなかった。 憔悴し、倦怠し、視線を外しあって交わらせず。 そんな他人のようなみんなの顔を。 だから先頭に立った。 早足で、歩いた。 途中で日が暮れた。 ひどく長い時間、歩いていた気がする。 何時間も。 普段は一時間もかからない道だ。 疲労のせいか。 誰も何も言わなかった。 七つの足音だけの世界だった。 異様に静かな山道。 虫の音さえも耳に届かない。 空気までも冷たく感じさせる。 夏だというのに。 その瞬間、 世界がぶれたようだった。 同じ風景が、違う側面から見たもののように感じられた。 一度立ち止まった。 進んでいいものか、どうか。 けど俺は進んだ。 見里「ぺけくーん……」 背後から、先輩の声が追いかけてきた。 けど俺は進んだ。 前向きに逃げていた。 この時もし『見直して』いたら。 あるいは立ち止まらなかったら。 俺たちは道をあやまらずに済んだのだろうかと、考えてしまう。 CROSS†CHANNEL 月曜日……か。 朝七時。 起床の時間だ。 だが! 起きなくて良いんだよ、坊や——— そんな優しいグランドマザー声《ヴォイス》が響く。 それはおまえを食べてしまうためだよ!——— それババア違う。ウルフ。 ということで寝て良し。 太一「フフフ」 幸せだ。 人類とか滅亡したのか知らんけど、今この瞬間、俺の幸福感は限りなく神に近い。 曜子「……太」 曜子「一太一。起きて」 太一「う〜〜〜んっ」 曜子「起きないとエッチなことをすると思う」 太一「……ぐう」 曜子「……そう」 ばさっ ごそごそごそっ 太一「ぐわあああああああああっ!!」 下半身に爆発的な官能が。 太一「……おっ……おぶおぶおぶ」 瞬時に導かれる。 太一「え?」 布団の中に誰かいる! 太一「あごあああああああああああああっ!!」 俺はエビっぽく仰け反った。 太一「や、やめれーっ!」 布団をはぐ。 曜子ちゃんがいた。 太一「わーっ!?」 蹴る。 曜子「うっ」 ころん、と背後に転がるが受け身を取った。 パンツとパジャマをあげる。 太一「なんばしよっと!!」 太一「こういうことしないでって言ったろ!」 曜子「……性行為はしないって言ったけど、こういうのは含まれていなかったもの」 太一「普通はこれも性行為なんだよ!」 曜子「……ルールをあとずけするのは卑怯だと思う」 太一「どっちが卑怯か!」 くそっ、俺の子種を抜き取られてしまった。 夢魔め! うかうか寝てもいられないぜ! 太一「なにしにきた!」 曜子「……お弁当」 紙袋を掲げる。 太一「アンタんとこでは、弁当届けにきてあれするのかね? ん?」 曜子「なぜか二人分」 太一「聞けよ!」 太一「……いや、いいや……常識ない人に常識説いても仕方ないし」 どっと疲れた。生気を抜かれたせいだ。 曜子「報告が」 太一「……あに?」 着替えることにした。 別に彼女に見られるのは恥ずかしくない。 というかどうでもいい。 曜子「拭いてあげる」 太一「え、いいよそんなの……自分ででき……」 曜子ちゃんの手にローションボトルが握られていた。 太一「俺の半径2メートル以内に近寄るんじゃねぇ!!」 ぴたり、と足が止まる。 太一「……前立腺マッサージをしようとしたな?」 曜子「いいえ」 太一「普段いじめられてるから仕返しですか」 曜子「いいえ」 太一「じゃあどうしてそういうことをするんですか、あなたは」 曜子「……好きだから」 太一「うそジャー!!」 俺は某人工衛星に積まれた人類とその歴史を示すプレートに描かれた全裸の成人男性のようなポーズを取りながら、彼女の言葉を否定した。 太一「前立腺マッサージで俺を虜にしようとしたな?」 曜子「いいえ」 太一「くっ、雌豹め……罪を認めようとしない」 太一「もういいよっ」 新しいパンツを探す。 曜子「はい、出してある」 太一「ん」 受け取る。 ヒヤリとしたが、構わず履く。 太一「……え?」 それは金属製の下着だった。 カチン、と尻の方から施錠するような音。 振り返ると曜子ちゃんが、しゃがみ込んでなにかしていた。 太一「なんしとん……」 曜子「鍵……かけた」 太一「……」 太一「なんで?」 曜子「鍵をしないと外れてしまうから」 太一「だからどうしてパンツに鍵を!?」 曜子「貞操帯だから」 太一「て……」 ていそうたい。 太一「はおっ、脱げない!?」 曜子「鍵がないと脱げない」 太一「鍵!」 襲いかかる。 曜子「ごっくん」 舌にのっけて呑んだ。 太一「おわー!?」 太一「なんで、どうしてっ!?」 曜子「……先週の太一はHだった」 曜子「だめ、そんなの」 太一「先週は自慰しかしとらんですばい!」 曜子「その先週じゃない」 曜子「とにかく目に余る所業、断固阻止」 太一「……わけわかんないよ……だいたい鍵……呑んじゃって……」 曜子「もう外れない」 太一「浣腸するぞこのアマ」 曜子「……いいけど、今しても無駄だと思う。それでいいなら、どうぞ」 やられた。 この人、たぶん自力で吐き出せるんだな。 金魚を生きたまま呑み込んで吐き出すおじさんみたくだ。 ハメられた。 ハメられすぎた。 ハメられあげた。 曜子「落ち着いて私の太一。貞操帯をつけたのには理由があるの」 太一「苦楽をともにしてきた戦友に貞操帯をつけなければならないほどの理由があるとでも?」 曜子「……今朝、少し調べてみたのだけれど」 何事もなかったように話しだす夢魔。 曜子「発電所に行けなくなっていたの」 太一「貞操帯をつけた理由」 曜子「それと祠の情報で、だいたい把握できた」 太一「貞操帯をつけた理由!」 曜子ちゃんは荷物をあさりだした。 わけわからん。 曜子「太一、これを」 新品のノートを束で渡された。 太一「……今提示された情報そしてアイテムは、互いにまったく繋がろうとはしない」 説明不足にもほどがある。 曜子「それと……いろいろヘン。だからもう少し本格的に調査してみたい」 曜子「……で見守っていない間、太一がヘンなことしないように貞操帯を」 太一「ああ……」 がっくり。 そういうことか。 曜子「昼は戻ってくるから」 だから二人分の弁当か。 ……なんか曜子ちゃんが能動的だ。 なんかあったか。 特に刺激するようなことしてないのに。 頬に唇を押しつけて、部屋を出て行った。 太一「はぁ」 ロボットのように通学を開始した。 股間には違和感。 すれると痛い。 がに股なってしまう。 太一「せめて、がに股が似合う好漢……バンカラで行くか」 今の俺にできるのは、下駄を鳴らしつつ応援団旗を地面に落とさないことだけだった。 坂を歩き出すと。 太一「むっ?」 タイヤがキュッと地面を擦る音。 危険信号。 太一「……ふ、甘い!」 早朝から寝込み襲われたこの身。 全身が敏感になっていたのだ! すなわちそれは、危険を察知する能力も鋭くなっているということだ。 太一「はーっ!」 どんな攻撃も、事前に予測していれば回避はたやすい。 ドカーン! 太一「せーーーーーーーーーーーっ!!」 歩行の邪魔をする貞操帯さえなければなぁ!! 七香「ごめーーーんっ!」 空中でサイドチェストをアピールしながら、雑木林に放り投げられた。 七香「平気ー?」 太一「……貞操帯が守ってくれたからな」 七香「はあ?」 太一「心ばかりの皮肉だ。気にするな」 雑木林から出てきて、ホコリをはらう。 もちろんがに股だ。 七香「がにー」 太一「……がにーと呼ぶな」 反射的に口走るヤツめ。 七香「今週も元気そうだ」 太一「意味の通らないことを」 太一「だが道理は通してもらうぞ、富江!」 七香「七香だよ、太一」 太一「とりあえず完璧に知らない人が俺の名前を知っているのはどういうことだろう?」 七香「きにするな」 太一「するわい」 運動神経はいいようだった。 こちらが徒歩でしかもがにーで低速なのに、よろけもせずに併走する。 見るからに、元気|溌剌《はつらつ》幼なじみ美少女といった案配だ。 毎朝起こしにきてくれたり。 太一「で、ご用件は? 存在感のない人」 七香「存在感がない?」 太一「ない。軽い。スカスカ」 七香「よくわからないけど、気配みたいなもの?」 太一「そう。ぶっちゃけ、キミが人間じゃないことも俺脳内審議委員会で明らかにされている」 七香「は、そんなことまで……鋭すぎるよ太一」 太一「フッ」 寝込み襲われの思いもかけない効能がここにあった。 太一「この察知能力に俺のメタ推理を重ね合わせることで、キミの正体までも絞り込むことができている」 七香「うわ、ホント?」 太一「キミはさそり座の女……つまりさそり座V861星に住む知的生命体なんじゃないかなって俺は思ってる」 七香「ブラックホールじゃん、そこ」 太一「……」 七香「適当だよね、かなり」 太一「……まあ。それが仕事だし」 七香「毎回大変だ」 太一「毎回とか今週とかさ。わかんないんだよ。初対面だろうが」 七香「何度もぶつかってるよ?」 太一「ない、それはない」 記憶にないし。 記憶喪失じゃないし。 七香「……ま、それはいいんだけどさ」 七香「しかし一回くらい恋が芽生えても面白いのになー」 すごいことを言った。 太一「え……俺に気があるということですか? この鷲鼻の俺に?」 七香「どこが鷲鼻なの? 普通に見えるけど」 太一「曲がってるじゃん。見てわかるでしょ」 七香「ぜーんぜん」 太一「おっかしいなぁ……」 七香「ちょっと曲がってるかもしれないけど……気にするほどじゃないと思うよ」 ぐっさり 太一「やっぱりそうか……曲がってるのか……」 ある頃から、鼻のねじれは気になりだした。 ……成熟とともに自我を意識し、自分を嫌いになった頃と同期する。 太一「うーーーーん」 七香「なんだなんだ」 そうなのかな。 周囲からの様々な悪意とか害意とか。 そういうものを意識するあまり、理由づけを容姿に求めてしまったのだろうか。 なんかで読んだな、そういう学説。 太一「ま、いいや、容姿なんて。偏向しきった物語の主人公がテキストで平凡って描写されてても絵では美形なのが変わることはないのだし」 七香「……まあまあ、毒はそのへんにしといてさ」 七香は政治的判断を下した秘書クラスの顔をしていた。 太一「で、キミってこの人類滅亡症候群とどう関係あるわけ」 七香「無関係」 太一「うそだよなぁ……絶対」 七香「本当だよ。人類は勝手に滅びました。理由はわかりません」 凝然と少女を見つめてしまった。 太一「……知ってるの?」 七香「見てた」 太一「見てた!?」 七香「うん。見てた」 七香「世界はね、ゆっくりと滅びていったんだよ」 太一「ゆっくり?」 太一「ゆっくりってどのくらい?」 七香「んー、さあねぇ。時間感覚なくなっちゃって」 太一「変だ。だって、俺たちが合宿行く前は普通だったんだよ?」 太一「合宿は二泊三日だったから……三日かけて滅亡したってこと?」 七香「ううん」 七香は首を振る。 七香「……もっとだよ」 太一「そりゃおかしいな。理屈に合わない」 七香「ものの見方の問題だと思うよ」 太一「はー?」 意味がわからない。 七香「ま、過ぎたことをくどくど考えても仕方ないよ」 太一「そうだけど……人類って、こんな簡単になくなるものなんだったんだな」 七香「どっかでなにか起こった、ってあたしは思ってる」 七香「なんとなく、肌の感覚でね」 太一「どっか?」 七香「言葉じゃうまく説明できないんだけど……」 七香「どこかで大きな波があって、それがバーッて広がったんだと思う」 七香「あたしの知覚力じゃそれが限度」 太一「……キミは……神様なのかな?」 彼女は苦笑した。 七香「ちがうちがう。そんな偉くないって。何もできないしさ」 七香「……なにもわからないんだよ」 太一「じゃあ、どうして俺の前に」 七香「……ん、それは……ちょっと言えない。言う資格がないから。ごめんね」 太一「資格……か」 そういう感覚、よくわかる。 俺が……仲間とつるんで普通に生きる資格がないのと同様。 だから群青に送られてきた。 人を傷つけるものだから。 俺は危険だから、友達を作る資格はない。 そしてそれは……正しい。圧倒的に。 太一「じゃあ無理には訊けないな」 七香「……ん、悪いね」 太一「別に」 太一「しかし、なんもわからんわけだ」 七香「あの子が頑張れば、謎そのものは解けると思う」 太一「彼女? 曜子ちゃんかな?」 七香「……好きにはなれないけどね」 と唇を尖らせる。 太一「嫌いなんだ」 七香「そうじゃないけど……なんとなく気にくわない」 太一「ふーん」 七香「掃除させたあとで窓枠を指で撫でて、不備を指摘してやる」 太一「姑|《しゅうとめ》みたいな思考だな」 七香「姑かぁ……悪くないよねぇ」 太一「なんじゃそら」 七香「太一」 声はずいぶん後方から聞こえた。 太一「?」 ありえない距離だった。 三秒前まで併走していた七香だ。 二十メートル。一瞬で移動できる距離じゃない。 太一「……」 七香「これが一番効果的みたいだからさ」 太一「ちょ、キミ……」 やっぱり。 人じゃない。 七香「……祠、知ってるね?」 太一「祠って」 曜子『それと祠の情報で、だいたい把握できた』 関係がある。 七香「知りたいのなら、あっち!」 白い指先が俺をびっと指す。 いや、俺の背後だ。 学校。 いや……山か。 合宿に行くときに使った山道がある。 ほとんど獣道だが、山頂に出るにははやい。 その先には。 祠がある。 何が祀られていたのか、わからない。 古く、朽ちた、小さな祠だ。 かつて、まつろわぬ神を奉じていたかもしれないその場所に。 今は近寄る者もない。 そこに何があるんだろう。 些細な疑問を返すべく、七香に視線を戻す。 彼女はいなくなっていた。 自転車とともに。 太一「…………」 蝉も鳴いてない、静かな新学期だった。 祠……か。 しかも学校に行くという意志をねじ曲げて。 なかなかできることじゃない。 人には無数の可能性があると思う。 けどだいたいは、当人の個性に支配されるだけだ。 人は大概同じ選択肢を選ぶものなのだ。 ただ。 同じ状況を何百回と繰り返した時、確率的に突飛な行動を取ることもあるのではないか。 そう思った。 俺は突飛な行動を、取ろうとしていた。 つい先日も、ここを通った。 絶望とともに。 そして今、再び山をのぼっている。 祠に行くために。 目的はない。 祠に行くことが、目的といえた。 あの少女……七香といったか。 彼女が指し示す理由。 それを見つけられる気がした。 人跡が絶えて久しいのか。 社に至る道は背の低い草に覆われてしまい、見つからない。 カンを頼りに進む。 ほどなくして。 太一「あった」 声に出てしまう。 人ばかりかあらゆる生き物の気配とともに、世界から騒音は消えた。 だが祠の周囲は、より森閑としている。 粛とした空気。 温度さえ低く感じる。 独特の緊張感に、喉が乾いてはりつく。 物音を立ててはいけない気分になる。 祠に近づく。 太一「……」 あきらかに奇妙だった。 何が。 具体的にどうとは指摘できないが。 この場所は、オカシイ。 理性のさらに奥、何者かがそう告げた。 オカシイがしかし、危険ではないようだ。 まじまじと祠を観察した。 高い段差の上に、小さな社が安置されている形だ。 扉は観音開き。 しめ縄で封印されている。 中を見なくてはならなかった。 妙な怪物が封印されている可能性もある。 いや、それはどうか……。 21世紀、世紀末をはずして人類滅亡までしている定番崩しがもてはやされる昨今、そこまであからさまなのはないだろうと何の根拠もなく思う。 扉に手をかける。 開く。 太一「……これは」 驚いた。 飾り気のない薄暗い空間には、怪物もいなければ古い壷も短刀も水晶玉もなかったが……。 ノートが積まれていた。 六冊ほど。 変哲のない学生ノートだ。 ミスマッチというやつだ。 意表を突かれた。 太一「……やるなぁ」 どこの誰だか知らないが。 ノートを取り出す。 表紙には無造作に、マジックで数字が書かれている。 巻数だ。 1と題されたノートを開いてみる。 ……。 …………。 ……………………。 月曜日 今日は学校に行ったのに、授業をさぼった。 冬子がやけにつんけんしていた。 きっと生理だ。 けど生理だからって八つ当たりは良くない。 仕返しにこの日記上でひどいことをしてやる。 冬子「いや、やめてっ」 俺「へへ、嫌がっていても体は正直(略)」 冬子「あっ、そんなの、いや、やめてやめてっ」 俺「駄目だ、もう男がここまで来たら引っ込みがつかないよ! 俺の自慢のライフルでおまえというターゲットにロックオンするしかないんだよ!」 冬子「いやぁーっ、体は、体はいやぁーっ!!」 俺「すぐに自分から欲しがるようになるぜぇ」 冬子「いや、お慈悲!!」 俺「聞く耳持つか、どりゃーっ!!」 冬子「……けだものーっ!!」 ここで赤い薔薇をさした花瓶のアップ。 やがて花は根本で折れ、静かに落ちる。 画面が滲んでいき、ホワイトアウト。 【完】 廊下を歩いていると、美希が掃除をしていた。 俺の指先は電光石火で美希の尻を狙ったが、かすめただけで実体をとらえることはできなかった。 美希はとろくて今まで触り放題だったのに。 これはゆゆしき問題ですぞ、校長! だが弟子が腕をあげたことは、素直に嬉しい。 師である俺が抜かれる日は近い。 久しぶりに部活に行って、みみ先輩にぱふぱふをした。 この日、俺は一つの到達点に辿り着いた。 感動、大。 他にもいろいろとあったが、全体的に良い日だった。 太一「これって……」 俺の日記だった。 続くページをめくる。 月曜。火曜。水曜。 間違いなく日記だった。 けど。 太一「おかしいな」 次のページ。 火曜日。 感情を対象化せよ! カレーパンのカレーをごはんにかけて食べだしたのは誰なんだろう。 そんな疑問が、いつも僕を差違なむ。 ※差違なむ=太一の誤字。苛《さいな》むという意味を、差違による違和感と結びつけた論理的な間違い。 太一は同様にタートルネックをトータルネックと間違えて認識しており、首をトータルに包むからトータルネックなのだと今なおかたく信じている。 わかたれることのない路を、幾度となく繰り返し往腹してきた、日々の終わりにわずかなりともむなしさを感じてならない。 ※往腹=太一の誤字 ボードレールは言った。 『神は死んだ』と。 神の存在を疑うことはたやすいが、神の悪戯というものは存在し否応もなく人生に降り注ぎ毎日通う路にも似て直線的であると信じていた人生に、突如として分岐点を儲けようとするのだ。※儲けよう=太一の誤字 たとゑば教室で、意固地な女性と無毛な会話を繰り広げた時。 ※無毛=不毛の間違い たとゑば廓下で、仲の良い友人と疎遠な友人のふたりに同時に会った時。 そしてまたその二人同士が友好的な関係を築いていたとき。 私はそのどちらに対しても、×××(塗りつぶされている)の屹立する意志を感じずにはいられずまた彼女たちが等しく有する神秘の××××で×××に鼻寄せ口つけて××××の際には惜しみない愛とともにあるのであり ×××を××××することについては×××しまいには××××××××××××××××が××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××。 『語りえないことについては、沈黙しなければならない』 これはキルケゴールの有名な言葉だ。 霧嬢の奥ゆかしい中性美と、それに対する私の正当なる熱情についての言及は、ここまでにしておこう。 人生の喜びはこれだけではないのだから。 そう。 屋上で出会った我が人生の先達であり、母なる包容力をもってして接し慈しんでくれる見里嬢については、いくら書いたとしても私腹は尽きない。 ※私腹=太一の誤字 まず何と言っても太も(以下、検閲) そして私の手には、彼女の身につけていた胸布が残された。 すでに体温の失われたそれを介して呼吸をする時、仄かな少女のスメルは私をまたたくまに幻想的な幻想へと連れ去るのであった。 〜FIN〜 間違いなく通常時の俺ノリだ。 けどおかしいじゃないか。 俺が書いた日記なら、記憶に残っているはずなのに。 確かにたまに書いてはいたけど……。 太一「……違う」 まったく記憶にない。 ここに書かれている内容は、記憶にはない出来事。 ちなみに記憶喪失でもない。 むしろいらんことまで覚えているタイプだ。 幼馴染みと結婚の約束でもしようものなら、将来固ゆでジョブに就いた挙げ句に敵の手にかかり自白剤をブチ込まれて廃人になったとしても、そのことだけは決して忘れることのないくらいに思い出ハンターでもある。 ま、記憶力は良い方だ。 記憶してないことと言えば……それこそ出産の場面くらいのものさ。 太一「わはは(米笑)」 すでに滅亡した米国人が喜びそうなセンスだった。 さて。 読み進める。 水曜日。 ふむ。次。 木曜日。 そして金曜日。 今日は海に行った。 去年はみんなで行った海。 今年はずいぶんと、寂しいことになった。 ぎこちなかったけれど、互いに築きあげると信じて、触れあおうとした去年。 楽しかった頃ばかりが思い出された。 あれからたったの一年で、俺たちは疎遠になってしまった。 互いに対する関心を失ってしまった。 いろいろなことがあったせいだ。 けど、理由はそれだけじゃない。 ……俺たちの心にも、問題があったんだ。 そして今、世界には俺たちのみがいる。 この皮肉に満ちた構図は、なんなのだろう。 夜、見里先輩の様子を見に行った。 ついでに、例の七香という少女の言葉を思いだし、祠を見に行った。 俺は夜の方が行動しやすい。 変な体質だ。 いろいろと疑問はある。 けど思考はまとまらない。 七香の意味深な示唆に反して、祠から異変は見受けられなかった。 ただ、一枚の紙片がそこにはあった。 曜子ちゃんのメモだった。 真新しいメモだ。 『全ての記録をここに保存しなさい』 いつものことながら、理由の説明はない。 彼女はあまりにも完成度の高い人間であるため、他者との意思疎通を必要としない。 そのため口べたで、寡黙で、余分な言葉をはぶく傾向がある。 はぶきすぎて、わけのわからないことも多い。 けど、彼女が言うことに間違いはない。 そうすべきなのだろう。 俺は自宅に戻り、今日までの日記を持ってくることにした。 だから日記は、これが最後になる。 一冊目はこれで終わりだ。 二冊目。 内容はほぼ一緒だ。 月曜からの何気ない日々。 そして土曜に祠に。 三冊目。四冊目。五冊目。 それが繰り返されている。 内容は、違うこともあった。 たとえばFLOWERSと出会うタイミングが違っていたり、みみ先輩と冬子への対応が違っていたり。 けど大まかには、同じ一週間を繰り返しなぞっているようだ。 まるで、同じ時間を幾度もやり直したような……。 冷静に考えると、この日記が示す可能性はいくつかある。 ㈰俺にもう一つの人格があって、勝手に書いた ㈪未来の俺が書いたものがここに来ている ㈫同じ時間を繰り返している ㈰はない。保証する。 猿にタイプライターを与えても、偶然シェイクスピアを書き上げることはないからだ。 ㈪も常識的に考えてまずないだろう。 ㈫——— 少なくとも、この五冊の日記が示しているのは、この可能性だった。 件のメモは、一冊目のノートに挟まれていた。 ひどく古いメモだった。 何年も前に書いたもののように思える。 全ての記録を……か。 まあ日記のことだろうな。 さて、なぜそうしなければならないか。 日記には基本的に金曜日以降の記録はない。 四冊目は例外的に土曜日まで続いていたが。 これはつまり、土曜以降になにかが起こり、また最初からやり直しを強いられているということになる。 再スタート地点は月曜だろうか。日曜という可能性もある。 日曜は気が滅入って、日記をつけなかったからだ。 おそらく多くの可能性で、同じ行動を俺は取るだろう。 いや、待てよ。 太一「世界が繰り返しているだって?」 突拍子もないことだ。 けど、今のところ……。 結論を出すのはよそう。 結論は終着点からの回想。 至る過程における判断の過程でしかない。 ここでは、俺が……いや世界が、同じ一週間を延々とループさせている可能性が高い。 と考えておこう。 ループにはルールがあるらしい。 それは……主観記憶の削除。 日記が途絶えて以降、少なくとも世界は五回以上は『巻き戻っている』はずだ。 同時に、俺の記憶も完全に巻き戻されている。 これは断定できた。 俺の記憶に欠損や不明瞭な部分はない。 曜子ちゃんはさすがくのいちで、早々にこの事実に気がついた。 そして俺に対してメモを残した。 なぜか。 つまり曜子ちゃんも、巻き戻りとともに記憶を失うから——— ひいては、他のメンツも同様だと思われた。 みみ先輩、冬子、美希と霧、桜庭、友貴……。 太一「そうか」 現状の厄介さがわかってきた。 記憶がリセットされる。 つまり。 今こうして真相にたどりついた記憶も、週末にはリセット。 翌週(文字通りの)には、疑問なく月曜日を生きる俺がいるわけだ。 俺が再び真相に到達するには、偶然に導かれてこの祠に……。 太一「……うわ」 下手な鉄砲を連射しないといけない状況だな。 げんなりした。 ルールはもう一つある。 それはこの祠が、どうやらループの影響を免れているということ。 この場所にいる限り、主観時間は保たれるわけだ。 太一「……曜子ちゃん、どうやって確かめたんだろう」 ノートがあれば理解はできる。 けど何もない状態で、いかにして祠の特異性を見抜けるのか。 およそ常人の行動力で探求できるとは思えない。 もちろん彼女は常人なんて生やさしいものじゃないけれど。 太一「曜子ちゃんなら、やるか……」 いろいろ調査してまわっているみたいだし。 太一「しかし」 祠の中に入りながら、思う。 狭い。 変形ロボットばりに手足を折りたたまないと、侵入はかなわない。 そもそもあの七香って女の子は、何者だ。 太一「うーむ」 判断材料はほとんどない。 快活そうで、変わった制服を着ていて、自転車に乗って、すらりと伸びた脚、引き締まった臀部、着やせしているものの平均値は上回るバスト……。 太一「あっ、いかん」 体積が増した。 こんなに増したら、祠に入りにくくなってしまうじゃないか! と思っていたが、すんなり入れた。 太一「……しくしくしく」 入れたは入れたが、身動きはほとんど取れない。 自分が直方体になってしまった感覚に包まれる。 扉を閉めてみた。 太一「完成」 何がだ。 まったく意味がない。 すぐに外に出た。 太一「……学校行くか」 あとはゆっくり考えよう。 霧は学校に来ているのだろうか。 月曜に見たという記録はなかった。 四階。一年の教室。 霧がいた。 景色を眺めている。 小柄な体格。 筋張ってはおらず、瑞々しい生命力に満ちている。 斜め後ろから見える横顔にはひとつまみほどの憂い。 額を覆う仕草で、黒髪がさらさらと波打つ。 若い生命力を薄く脆いガラスの膜で覆った……愛すべき少女。 傷ついては破片を落とし、時に人を傷つけもする。 だが狭い肩から掛かる背中は華奢で、いかにも無防備に見えた。 ……襲いかかってしまいそうなほどに。 俺の存在には気づいていないらしい。 太一「ハロー、ミス イノセンス」 全身が強ばる。 緊張感が背中を覆ったのだ。 ゆっくりと振り向く。 ゆるやかな動作のさなか、少女はかろうじて攻撃態勢を整えた。 振り返れば、厳めしい面差し。 太一「おはよう」 霧「……何の用です?」 声が張っていた。 可能な限り低くされた声色。 太一「用ってことはないけど———」 霧「でしたら」 言葉を切断して霧は言う。 霧「どうぞ、お引き取りを」 肩をすくめる。 太一「やっぱりあったよ。要件」 霧の目がせばめられる。忌々しげに。 太一「美希君はいないのかな?」 霧「……いません」 太一「来てないの?」 霧「……いません」 対話を細かに噛み合わせる気はないらしい。 俺はまた肩をすくめた。 太一「とりつく島もないな」 霧「はい、ありません」 手近なイスに座る。 太一「いやー、生理が重くてね。まったく憂鬱《ゆううつ》な時期だよ。ほら、人類滅亡してるし」 霧「……」 じっと見ている。 俺の一挙一動を警戒している感じだ。 太一「ミス・イノセンスはさー」 霧「人をそんな名前で呼ばないでください」 太一「霧ちんはさー」 霧「馴れ馴れしく名前で呼ばないでください」 太一「ふぅ」 肩をすくめた。三度目だ。 太一「俺、すっごくいじめられちゃってるなぁ」 霧「……」 席を立つ。 霧「……っ」 警戒が強まる。 ぞくっとした。 すげー可愛い。 サディスティックなマゾッホである俺は、こんなキャラにサティスファクション。 太一「ふふ……」 霧「……?」 不敵に笑う俺。戸惑う霧。 腰を落とし、いつでも逃げ出せる体勢だ。 俺はそのままわずかに移動し、とある席の前に立った。 太一「ここだっけ、霧の席」 霧「呼び捨てにしないでください……」 霧「……あなたの分際で」 ナイフだった。 ぐさぐさと突き刺さる。 太一「佐倉の席」 ゆっくりとした動作で、座ろうとする。 霧「やめて!」 切羽詰まった叫び。 ぴたりと止める。 太一「なぜだい?」 霧「……汚《けが》れますから」 取り乱したのを恥じるような、ことさら低まった声。 太一「ふーん。じゃ仕方ない」 座った。 霧「あ———」 太一「いやー、あつはなついねぇ。のだおぶながだねぇ」 霧「……」 太一「だんまり?」 霧の肩が震えていた。 そんなに悔しかったのか。 ひどい嫌がりようだ。 霧「何しに来たんですか」 俺はにっこり微笑む。 太一「ミス イノセンスのイノセントな純潔だ」 霧「……帰ってください」 太一「まだ何もしてないのに」 霧「この上なにかする気なんですか?」 太一「どーしようかなー」 悩む。 ガラス細工に触れると指紋がついちゃう。 そんな逡巡。 太一「うん、やめた」 霧「…………」 無視だった。 無視かナイフかだ。 太一「世間話だけにしよう」 霧「帰ってください」 肩をすくめた。四度目。 太一「あ、授業道具持ってきてる」 霧の鞄の中身を勝手にあさる。 太一「今日は始業式だけだったの。ははーん、さては初日に持ってきた教科書を全部置きっぱなしにするタイプだな?」 霧「勝手に見ないでください。鞄に触れないでください」 肩をすくめた。五回目。 肩すくませられっぱなしだ。 さすが佐倉霧。 ミス イノセンスの異名を持つ娘。 太一「俺が何をしてもキミは傷つくんだな」 霧「……」 太一「疲れない?」 霧「誰の……せいだと……」 声が震えた。怒りのため。 いつもはもっと素っ気ないのに、さすが人類滅亡。 霧もかなり動揺して、心の壁が揺らいでいるようだ。 太一「俺のせいかもね」 くすくす笑う。 肩をすくめる。 カクカクと高速ですくめては弛緩しすくめては弛緩し、コミカルな動き。 霧「……出ていって……くれますか」 激昂したいのを必死でこらえていた。 太一「……ハヒ」 怒らせすぎた。 立ち去るとしよう。 太一「あ、ねえ、昼ご飯一緒に食べない?」 霧はきょとんとした。 太一「……ダメか。じゃあね。霧ちんによろしく」 教室を出たのだった。 美希「せんぱいっ」 背後から声をかけられた。 太一「よー」 太一「掃除終わった?」 美希はぎょっとした。 美希「よ、よく掃除をしていたとご存じで……」 美希「見てました?」 しまった。 日記情報。極秘。 太一「……ナイショにする必要もないのかな」 美希「ナイショとは?」 太一「あーいや、こっちのこと」 いいや、しばらく伏せておこう。 確かセクハラとかするんだよな。 ……俺もお盛んだな。 どうしたものか。 セクハラ&サインGO! よし、原作に忠実に。 確か……。 廊下を歩いていると、美希が掃除をしていた。 俺の指先は電光石火で美希の尻を狙ったが、かすめただけで実体をとらえることはできなかった。 美希はとろくて今まで触り放題だったのに。 これはゆゆしき問題ですぞ、校長! だが弟子が腕をあげたことは、素直に嬉しい。 師である俺が抜かれる日は近い。 ふむ、電光石火で尻か。 といっても日記ゆえ細部はわからないのだが。 太一「てりゃー」 気の抜けた気合い。 とともに手をのばす。 美希「っ!?」 美希の目がキラリと光る。 がっし! 四つ手を組んでしまった。 美希「殿、殿中でござる、殿中でござるぞ……」 キリギリギリと力が拮抗する。 太一「そちの尻をこの指先がかすめねばならんのだ、わかってくだされいっ」 美希「わかりませぬ、そのような世迷い言、この美希にはとんとわかりませぬ〜!」 太一「安心めされい。かすめるだけで、実体はとらえぬのじゃ」 美希「わけのわからぬことを……」 ギリギリギリ 太一「これはゆゆしき問題ですぞ、校長!」 埒があかないので予定をはやめた。 美希「……校長???」 太一「OKわかった。やめよう」 手をほどく。 美希「相変わらずのご乱心ぶりで」 微妙に警戒している。 隙のない娘に育ったものだ。 太一「腕をあげたな」 美希「いえいえ」 太一「昔は、ただ揉まれるばかりだったその尻、もはや容易く触れることのできないものになりつつあるようだ」 美希「いえいえいえ」 太一「だが弟子が腕をあげたことは、素直に嬉しい。師である俺が抜かれる日は近い」 棒読み。 美希「さっきからどうも妙なことを口走っておられますな」 太一「気にしないで。予定調和大好きっ子なんで」 美希「……はー」 呆れていた。 すぐにくすりと笑う。 美希「ほんと、相変わらずで」 美希「こぉんなことになってるのに」 太一「つうてもねぇ」 太一「死体とかないし、文字通り消失してるわけで」 太一「どうも実感がない」 美希「ですね」 太一「犬とか猫とかも見ないし、蝉だって鳴いてない」 太一「人間って体内の微生物がいなくなったら、マズイんじゃなかった?」 美希「体内のは無事なんじゃないですか?」 太一「だよねぇ」 美希「すっごくいい加減な事態であるとか」 太一「たとえば?」 美希「んー」 祈るように合わせた手を顎に添えて、美希は考えている。 キュートだった。 太一「その仕草いいね」 美希「どうも。たとえば……夢を見ているとか」 太一「夢オチかぁ」 憂鬱になるな。 美希「憂鬱になりますね」 おお、同志。 太一「現実感のなさは確かに夢そのものなのだけど」 太一「俺の予測ではこうだ」 太一「FS現象!」 美希「……フライング……シ、シ……シャ……」 美希「シャーベット、ですか?」 太一「違うな」 美希「フライング……シャ……シャ」 美希「シャーレ」 太一「空飛ぶペトリ皿。残念、ハズレ」 美希「フライングぅ〜……シャ……シャ……」 美希「シャーロキアン」 太一「ホームズか。ヤツが身につけた日本式レスリング・バリツは俺も認めるスゴイ格闘技」 美希「……実在してましたか、アレ」 太一「カラデと双璧をなす」 美希「どちらも全然聞いたことないんですけど」 太一「メタアーツだからな」 美希「???」 太一「特定の条件を満たした相手しか倒せない」 美希「……ゴミ武道じゃないですか」 太一「ゲームってのは突き詰めるとメタに行きつくの!」 興奮した。 美希「そんなもんですか……」 太一「特定の相手にはメチャ強ですよ」 地球上にはいない生物像も多いが。 太一「美希のカラデもだいぶ様になってきたよ」 美希「ずっと叩き込まれてきたコレはカラデとかいうわけのわからん格闘技だったとですか!?」 太一「わけのわからんは余計です!」 美希「……ショックを受けました」 太一「うむ」 美希「フライング シャイ」 急に戻る会話。 太一「空飛ぶはにかみ屋。絵にしたらすごく笑えそうだな」 美希「で結局FS現象というのは?」 太一「ごめん、SF現象だった。間違い」 美希「……………………」 ごっそり裏をかかれたような、形容しがたい表情をした。 太一「すこしふしぎ現象といって……」 美希「あ、もういいです。その時点でわかりました」 太一「……あ、そう……?」 美希「要するに、わからんなぁ、ということですよね」 太一「科学は無力だね」 太一「というわけでサインの時間です」 太一「愛王子スタンプサインラリー。ミキミキはいくつためたのかなー?」 美希「はい、ミキミキです。サインをもらうのは久しぶりです」 太一「夏休みだったしね」 手帳を受け取る。 メイトブックだ。 初代校長が名店ソープ『メイトブック』であまりの快楽によって悟りを開いたことにちなんでそう呼ばれ嘘である。 太一「……」 手帳は俺の落書きで埋まっている。 白紙のページに、新たなサインを記す。 太一「20コためるとすごいサービスが」 美希「……Hな悪戯なんだろうなぁ」 太一「ん、なんか言った?」 美希「いいえ」 太一「さて、こんなとこかな、ノルマは」 美希「……?」 太一「そーそー、食い物はちゃんとありますか?」 美希「はい。全然平気です」 美希「手料理といいますと、ちとアレなのですが」 苦笑い。 太一「昼飯は缶詰だったりして」 美希「まさに食パンと缶詰です」 太一「……貧乏くさい弁当だな」 美希「たはは」 太一「仕方ない。これをやろう」 太一袋から、サンドイッチの包みを取り出す。 美希「これは?」 太一「神話で砂と魔女を挟んで食べたという言い伝えが……」 美希「サンドイッチですか」 機先を制された。 太一「うぐー、そうだ!」 美希「怒られている……」 太一「やる!」 美希「えっ、いいんですか? 先輩のごはんでは?」 太一「俺はいくらでも調達できるし」 太一「……二人分はあるから、霧ちんと食べると良い」 美希「ありがてぇのですが……その」 太一「……さっき霧ちんをランチに誘ったら相手にもされなかったよ」 美希「うおー、この人は人類死滅してもまだ霧ちんいじりを……」 美希はわなわな震えた。 太一「人類が滅亡したところで、変わる俺ではなかった」 モノローグ調で告げる。 美希「さすがヤングメン……」 太一「ヤングアダルト候補生だ。間違えるなよ」 美希「違いわからんです」 太一「ヤングアダルトというのは、酸いも甘いも知っている男の中の男。つまり俺の目指す理想の大人像」 太一「そつなく仕事をこなし部下からは慕われ、上司でさえも萎縮してしまうスーパーエリート。そして週末はビーチでのアバンチュールで都会の喧噪を忘れ、夜は書斎でバイロンの詩集を黙読しつつコニャックを楽しむわけだ」 美希「……少女に対してだけでなく、将来の自分にまで幻想持ってましたか」 太一「そう誉めるなよミッキー」 美希「ミッキーです。誉めてません」 太一「ま、今はまだ候補生だからまだまだ蕾ではあるけどな」 太一「花開いたら霧ちんもきっと俺にメロメロ……」 美希「醜いアヒルの子はたいてい醜いまま大人になるんですよ〜」 にこやかに言う。 太一「ひどいっ!」 泣き伏す。 太一「だって生きるのに希望がいるんだもんっ」 美希「よしよし、泣かないでください〜」 太一「……とにかく、そのサンドイッチをミッキーの手作りと称して霧ちんに食べさせてやりなさい」 美希「……あの、いただいておいてこんなこと言うのもナンですが」 美希「媚薬《びやく》とか入ってないですよね?」 太一「……………………」 気持ちよいほどに信頼されていなかった。 美希「そろそろ行きます」 太一「うむ」 美希「あ、そうです」 立ち去ろうとした美希が、振り向いた。 美希「みみ先輩、部活再開したって、知ってます?」 太一「へー」 例のアンテナの件だな。 知らないフリしとかないとな。 太一「平和維持活動じゃなくて……ええと、友貴がやってる生命維持部とは別に?」 美希「いや、放送部の……ほら、ラジオ局の」 太一「ああ……コミュニティFM局がどうたらってやつ?」 美希「です」 太一「いろいろあって中止になってたはずじゃあ?」 美希「アンテナ、組み立ててましたよ?」 太一「うわ、あぶねー」 途中まで組まれていたとはいえ。 美希「脚立使ってよちよちやってました」 太一「よちよちって……」 美希「そんくらい危なっかしかったんです」 太一「……あー、ショックだったのかなやっぱ」 美希「でしょうねぇ」 俺たちは顔を見合わせて、力なく笑った。 美希「お互い、頑張って生きていきましょう」 太一「だな」 美希「自分が可愛いですしねー」 美希「んじゃ」 すちゃ、と片手をあげて、美希は去った。 太一「しかし、部活ねぇ」 扉を押し開ける。 抵抗があった。 向こう側から押さえられている。 強く押す。 扉の向こうで、小さな乱気流が霧散した。 風だったのだ。 アンテナ。 それなりに形になっている。 指向性や波長など、いろいろな調整が必要だ。 が、そういう知識は俺にはない。 先輩も詳しくはなかったが、勉強したらしい。 その先輩だが……いない。 工具。 脚立。 書物。 風で飛び散った、菓子パンの空袋。 作業をしていた痕跡だけが残されている。 24時間作業しているわけでもないのか。 アンテナを見あげた。 周囲が開けていて、背の高い建物。 電波を飛ばすには、うってつけの環境らしい。 コミュニティFMという、地域密着型のラジオ放送がある。 本来、学校の部活でやるほど敷居の低いものでもない。 が。 立地と、群青学院のなりたちと、地元有志の善意溢れる意向。 そういったものが、今回の話に結びついた。 準備が進められていたが、とあるやむを得ない事件によって、うやむやになっていた。 搬入されたアンテナは、一年、そのまま放置されることになった。 そんな事情があるのだった。 おそらくFM群青に求められていたものは、健気に生きる少年少女たちの希望に満ちた愛コンテンツ、だったのだろうけど。 ごめん、そんなものは群青にはありません。 結果オーライだと言える。 見里先輩は、SOS計画を立てた。 日曜の夜に彼女はそう言った。 人類が消失してしまったことを、手分けして確認してからだ。 高所にアンテナがあるのだから、完成させて発信してみようという試みは……いかにも現実味が乏しい。 正直、先輩はほつれてしまった、と思った。 逃避は次第に人を弱くする。 そして先輩はもともと十分に弱かった。 見里「ぺけくん?」 背後。 向き直る。 太一「はろーです。先輩」 見里「はろーです……えーと、どうしました?」 太一「様子を見に来ました」 先輩はふんにゃりと微笑む。 見里「そうでしたか」 太一「しばらく来てなかったんですけど、だいぶできてますね」 見里「けっこう前からコツコツとやってますから」 そう。 放送部が自然崩壊してからこっち。 先輩は一人ですべてをこなしていた。 昼休みのDJ。 各種放送。 すべて。 誰も手伝わなくなった。 霧は俺を敵視するようになり、 友貴は姉を避けるようになり、 美希はおろおろと苦笑い、 冬子も俺を無視しはじめ、 見事、瓦解《がかい》。 桜庭だけがいつもと変わりなかった。 変わりなく、サボっていた。 俺はそれでも先輩の周囲をうろちょろしていたけど。 彼女の方が、手伝いを拒んだ。 太一「……そうでしたね」 見里「びっくりしましたねぇ、それにしても」 太一「ですなー」 見里「人が一斉にいなくなるなんて」 太一「静かですよね」 見里「すごくすごく静かです」 太一「どこ行ってたんです?」 見里「ちょっと……おなかがすいたので」 太一「昼ですしね。うまく食料見つけられました?」 見里「ああ、家に戻ってました。食べ物は特に不自由してないですし」 太一「あー、学校サボリー。部長がさぼりー」 見里「ち、違いますよっ、これはさぼりではありませんっ」 焦る。 規則重視の人なのだ。 太一「停学、停学です」 見里「停学はいやー、履歴に傷がー」 太一「停学! 停学!」 見里「停学はだめですー」 二人ではしゃいでいた。 これが今の俺たちの、最短距離だった。 食堂。 昼飯はやっぱりここで食べたいところだ。 桜庭「よう、太一」 カレーパン桜庭だった。 超辛いここのカレーパンが大好きだ。 太一「人類滅亡してもカレーパン」 桜庭「……やらんぞ」 太一「いらんわい」 桜庭「これを食い尽くしたら、もう食い納めだしな」 表情が曇った。 その背後に、パンの詰まったケースがタワー状に積んである。 太一「……これいつ搬入されたやつだ?」 桜庭「昨日じゃないか?」 昨日。 確かに半日でもパンの販売はある。 基本的に休日以外は食堂として機能しているのだ。 始業式であってもパンは搬入されている。 そう。 つまり昨日まで、ちゃんと世界は維持されていたわけだ。 太一「にしても数が少ない」 ケースの数は、いつもの十分の一もない。 桜庭「始業式で半ドンだからだろ」 太一「にしても……少ない」 桜庭「それにオレは、人類が滅亡したとは思っていない」 太一「なんだって?」 桜庭「恐らく、市民全員で隠れんぼをしているんじゃないか、というのがオレの予測だ」 太一「妄想だそれは」 太一「予測なんて言葉は使うな。おまえが考えて結論を出したみたいじゃないか」 桜庭「フッ……手厳しいヤツめ」 太一「満足そうに微笑むな」 桜庭「だが気にすることはない」 桜庭「時間が経てば、みんな戻ってくるはずだ。オレの計算によるとな」 太一「…………オレも脳天気だが、おまえは細胞レベルで脳天気だな」 桜庭「フ」 どうして傷ついた少年少女たちの中にコイツがいるんだろう。 本気で悩んでしまった。 桜庭がそんな俺にカレーパンを差し出す。 桜庭「食え」 太一「いらん!」 撃墜。 結局、学校に来てもやることはない。 帰るか。 けど……こんな悠長なことでいいのかな。 日曜以降、世界は巻き戻される。 太一「……」 俺は何をすべきなんだろう。 何ができるんだろう。 最初に知った時、曜子ちゃんはどう思ったのかな。 どんな気持ちで、あのメモを残したのか。 気が抜ける。 この人のいない、ガランとした世界でどんなに生きても。 全部やり直し。 部活に頑張っても、食料を調達しても、逃避しても。 一週間。 それでご破算。 精一杯生きても——— ……意味があるのか。 空虚な考え。 廊下にへたり込む。 太一「……」 もしかしたら、この世界は俺の理想郷かも知れない。 致命傷が、致命とならない世界。 一週間で元通り。 誰を傷つけても、誰と共依存しても。 リセット。 冬子と仲良くしたら次はみみ先輩と。 霧と。 美希と。 気が向いたら曜子ちゃんと。 桜庭と。 ……それはない。 目が痺れた。 俺は目に異常を持っている。 日常生活に支障はないが、ときおり、世界がおかしく見える。 太一「どうして……俺一人じゃないのかね」 心が疲弊して、しばらく動けなかった。 CROSS†CHANNEL 去年の初夏だった。 新川豊と出会ったのは。 蝉のうるさい夏だった。 偶然、ぶつかった。 妙に会話が弾んで。 ウマがあった。 群青には完全に自分の世界で生きている者もいる。 人を傷つけやすい者もいる。 ある頃から、世界は狂人を生み出しはじめた。 その多くが人を傷つけた。 心の病は、ただ己だけの問題ではなくなっていた。 原因はわからない。 政府はいくつかの対策を打ち出したが、その内容が広く報道されることはなかった。 水面下で動いている、と曜子ちゃんは言っていた。 詳細は不明。 少なくとも、世界が緩慢《かんまん》な狂気に浸されていることは……自分の胸に聞けばよく理解できた。 だから群青学院は存在した。 隔離施設として。 留年は日常茶飯事。 だが何年かけても症状が回復しない者は、さらなる施設へと送られる。 そういう人々は、ほとんど他者との接触を必要としない。 独力で生きる力には欠けているが、当人の心は、もう人のそれを離れてしまっているのだ。 だから。 群青では友達を作るのは、少し難しい。 対話が成立しにくいからだ。 1クラスで、10人くらいだろうか。 まともに会話が成り立つのは。 新川『OK、なんとかやっていけそうな気がしてきた』 太一「…………」 誰が悪かったのかな。 俺か。 それともヤツか。 結論は出ない。 涙も出ない。 まだ、出ない。 て、帰宅と。 太一「ふう」 誰もいない。 睦美さんの姿はない。 早帰りの日は、暖かく出迎えてくれて。 夕食作ってくれて。 机を料理で一杯にするのが好きで。 男性的な料理。 仕事柄だろうか。 豪快で、パワフルで。 冗談を言い合って。 いい人だったな。 けど今、机の上は虚ろにたいらで。 料理が湯気を立てることはない。 太一「……腹減ったな」 田崎商店からカップラーメンを持ってきた。 食うか。 うお、電熱器がつかねぇ。 庭にはちょっとしたパーティー用のスペースがあり、そこで湧かしてもいいのだが。 太一「めんでぇー(面倒だ)」 そのまま食うことにした。 バリバリ(麺) ごくごく(水) バリバリバリ(麺) ごくごくごく(水) バリバリバリバリ(麺) サクッ……(乾燥メンマ) 太一「……虚しくなってきた」 俺は本当に食事をしているのか。 やっぱ人類滅亡きっついわ。 いろいろ不便だもんな。 夜自室。 蝋燭に火をつける。 日記をつけることにした。 なんかヘミングウェイっぽいし。 日記に使おうと大学ノートを探すが、どこにもなかった。 太一「ん?」 確か何冊か買い置きがあったのに。 太一「んー」 金庫の中か。 一応調べてみる。 金庫には、基本的にエロ本を収納してある。 耐火金庫なので、家事になっても俺のエロスは保たれるって寸法さ。 調べるため、金庫をあけた。 ……………………。 三十分後、金庫を閉じた。 ここにノートはなかった。 太一「ふぅ」 いかん、無駄に時間をロスしてしまった。 まったくもう……この金庫の中身と来たら……フフフ。 罪深い桃色小空間め。 さて、ノートはどこに行ったのだろう。心当たりがない。 記憶喪失か。 太一「いよいよ俺も主人公っぷりに磨きがかかってきたようだ……あ、そだ」 曜子ちゃんにもらったノート。 ベストタイミングだ。 ……なんか神がかってるな、彼女。 シュリンクをペリペリはがす。 さて、書くか。 太一「……」 ペンがないぞ。 見あたらない。 太一「金庫の中か?」 再び金庫をあける。ペンを探すために。 ……………………。 四十五分後、金庫を閉じた。 ペンはなかった。 愛があった。 太一「……ふぅぅ〜」 せっかく急いだのに、連戦しちゃあ意味がないよね♪ 小憎らしい誘惑夢小箱め! ペンは机の横に落ちていた。 日記を書く。 辞書が欲しくなった。 ところが辞書がないのだ。 太一「……」 金庫をあける。 ……………………。 一時間二十七分後、金庫を閉じた。 太一「……ふ」 ハッスルしすぎ、俺。 究極抱き枕(商品名)は、どうも具合が良すぎてイカン。 もう十時を過ぎていた。 太一「うおっ!?」 特大の蝋燭もとうに消えていた。 しまった、虚脱に時間を割きすぎた。 だから抱き枕系のジョークグッズは……。 と、日記を書かねば。 新しい蝋燭をつけて、ノートに立ち向かう。 CROSS†CHANNEL 目を覚ます。 陽光が窓を貫いていた。 熟睡していたらしい。夢一つ見なかった。 時間は……7時。 学校に行く必要などない。 けど、体は動いた。 朝食の用意はされていない。 当然か。 美人でキャリアな睦美おばさんは料理もうまいが、もういない。 引き取ってくれたこと。 曜子ちゃんとのことを、穏便に取りはからってくれたこと……。 感謝はいくらでもできた。 孝行する前に、消失してしまった。 机の上に、紙袋が二つ置かれていた。 中身は……サンドイッチだ。 曜子ちゃんか。 一人分の袋と、二人分の袋。 朝食用と弁当用だ。 弁当用が二人分の方。 こういうところは可愛いと思う。 彼女は人を口説くということに、まったく慣れていない。 一人で全てまかなえるタイプだからだ。 十年来の知り合いである俺に対しても、ぎこちない。 頑張れば、もっと完璧なものになれるのにねぇ。 太一「……いただきます」 それでも。 東の家に、手を合わせた。 この道で、よく遊紗ちゃんと出会った。 よくなついていた。 こそばゆい、存在だった。 今の俺ができるまで、俺もいろいろ苦労している。 遊紗ちゃんの存在は、よく俺を癒してくれた。 そんな彼女ももういない。 桜庭「よう」 桜庭だった。 太一「よう」 桜庭「腹が減った」 太一「食ってないのか?」 桜庭「一時間目の授業に備えている」 太一「……カレーパンを食うのが授業なのか」 桜庭「カレーパンがなくなるその日まで」 桜庭はクールに決めた。 太一「レトルトのカレーでも食ってればいいじゃないか」 桜庭「カレーは嫌いだ」 太一「……………………」 謎だ……こいつだけは本当に……。 なんでわざわざ来たんだろう。 適応係数で弾かれたわけでもないだろうし。 やっぱ親の財力で圧力をかけて……。 太一「意味ねー」 桜庭「ん?」 太一「今おまえの存在の無意味さを悟ったところだ」 桜庭「なに……オヤジはオレこそ世界そのものだと言っていたんだぞ?」 太一「おまえのオヤジは生暖かすぎるんだよ!」 桜庭「不思議な言われ方だ……」 太一「コンバットがいなくなったのは悔やまれる」 桜庭「ふ……おかげでオレは楽々通学」 太一「おまえはもっと苦労しろ。得意の金で苦労を買え。あと苦労したらもっとダメージを受けろ」 桜庭「難儀な注文を」 桜庭とつらつら通学する。 と。 桜庭「ヘックスッ!」 太一「六角形!?」 桜庭「ぐし……夏風邪か」 くしゃみだった。 桜庭「むぅ」 桜庭の目が、あるものを注視したためにこぼれた、小さな驚きだった。 俺と桜庭との間に、橋がかかっている。 片方は俺の制服の、ちょうど腹部あたり。 もう片方は、ラバの鼻。 つまり。 桜庭「フッ……」 不敵に笑う。 鼻汁橋できた。 粘度の高い液体が、 のびろーん と吊り橋をかけていたのだ。 俺の推理はこうだ。 くしゃみをした拍子に、打ち出された鼻汁弾は新幹線よりも速い初速で(本当)こちらの制服に打ち込まれた。 粘着力の強い液体は、弾丸に引っ張られてむさ苦しい桜庭の鼻腔から引きずり出され、普通なら切れてしまう接続部を主人のしぶとさを彷彿とさせる粘度で保持し、橋の完成と相成った。 桜庭「…………」 その事態が、ようやくヤツにも理解できたようだ。 スッキリした顔をしている。 身動き一つ取らない。 たぶん今、コイツが考えているのは、鼻水を放出して鼻がスッキリした……というようなことだろう。賭けてもいい。 太一「おい……はなぢる野郎」 小児性に満ちた称号を授与してやった。 桜庭「んあー?」 極度の弛緩によるものか。 桜庭はぽややんとしていた。 この! このガキに新たなトラウマを植えつけなくてはならない。 少しでも群青っ子に近づけねばならない。 アトランティス帝国の血が沸騰した。 桜庭が反応するよりはやく、冷静にハンカチを取り出す。 それでまず、桜庭の鼻先を包んだ。 桜庭「……うゅ?」 クソ気持ちの悪い萌え声をあげる。 根本を断ち切ってから、幾度か折り返して鼻下をぬぐう。 それから鼻汁橋を回収しつつ、自分の制服を軽く拭いた。 ハンカチをポケットに戻……さず、桜庭の顔面に押しつけた。 桜庭「おおおおおおおおおっ!?」 太一「んー?」 桜庭「それは……少々……汚く……ないか?」 太一「いいんだよ」 朗らかに笑って。 太一「おまえだから」 ぐりぐりと押しつけた。 桜庭「おうおうおうおう」 ぐりぐりぐりぐり 桜庭「おうおうおうおう」 地獄絵図といえた。 太一「可愛い俺様を、泣き寝入りさせたままにしておくようなハンカチじゃないんだよ」 どす黒い声色で告げる。 桜庭「……っっっ!」 桜庭の体がびくんと震えた。 粘液の感触に、精神がショートしたのだろう。 ハンカチを付着させたまま、地面に倒れ伏す。 太一「六角形にふけるのもいいが、夏風邪には気をつけた方がいいな、桜庭君」 ごす、と頭を踏みにじって、歩き出す。 太一「まったく……」 桜庭「また、おまえとの思い出が一つできたな」 平然と隣を歩いていた。 太一「少しはダメージ受けろよ!!」 ハンカチ一枚で桜庭の友情を射止めてしまった。 廊下に霧が立っていた。 太一「霧ちん……」 キッ、とにらまれた。 負けじと俺もにらみかえした。 ババババババババッ!!(心理効果) 視線の応酬。 圧力ある敵意が、衝突しあって中間地点で渦を巻く。 小娘めっ!! 懐に手を入れる。 得物を取り出すぞと言わんばかりに。 実際は乳首が痒かったからだ。 霧「……ッッ!」 霧は過敏に警戒した。 すっと、ポケットに手を入れる。 ヤツも得物をっ! 太一「く」 俺は懐に手を入れたまま、さらに眼力を強めた。 バチバチバチバチバチッッッ!! 向こうもポケットから手を出さない。 膠着《こうちゃく》状態。 クイック&ドロウ。 先に動いた方がやられる。 そこに手をふきふき、美希が出てきた。トイレから。 美希「わーーんっ、トイレしてた隙に修羅場になってるーーーっ!!」 太一「今助けてやるからな美希!」 美希「囚われている設定になっている……」 霧「さがって、美希」 美希「いや、だから……」 霧が腰を落とす。 太一「……フッ」 俺は肩の力を抜いた。 手も抜く。 霧「……っ」 空手だ。 ひらひらと、無防備な様を示す。 太一「ハッタリのかましあいはここまでだ、霧ちん」 太一「こちらは武装していない。そちらも無意味な虚勢はやめたまえ」 たまえ、とか言ってる俺はどこまでも格好いい。 純愛貴族の異名は伊達ではなかった。 霧「…………」 霧は手を抜いた。 クロスボウが握られていた。 太一「……にゃ?」 バックマスター社製マックスポイントクロスボーーーーーーーーっ! 太一「待て待て待て待て」 太一「今のはおかしいぞ! そんなサイズのものがポケットに入るわけないだろ!」 霧「…………」 無言でクロスボウを構えている。 スコープの向こう、霧が俺の心臓を狙っているのがわかる。 ひしひしと視線を感じた。 太一「ブリキロボがあれほど欲しがっていた心を狙っているっ!?」 霧「動かないで下さい。撃ちますよ」 美希「あわわわっ」 ミキミキも動転。 太一「降参降参!」 両手をあげる。 霧「あ、狙いやすくなった……」 さらに狙いを定めた。 太一「ノー! ノー! ヤメテー!」 ぶんぶんとクビを振る。 泣きそう。 というか泣いてる。 美希「霧ちん、霧ちん! マズイよ、逮捕されちゃうよ!」 霧「警察もういないし」 美希「あっ、そうか」 美希「ぽえー……」 大人しくなった。 太一「納得しないでー!」 霧「膝を突いて、手を頭の後ろに」 太一「はひ」 従う。 霧「……次、どうしよう?」 美希とひそひそ会話する。 俺には聞こえる。 美希「武装解除は?」 霧「何も持ってないみたい」 美希「……」 思案。 美希「じゃあ、こんなのはどう?」 囁く。 霧「……わかった」 霧は頷く。 クールに見えて、実は美希にべったりなのである。 だから言いなり。 そこに活路はあった。 ミキミキのことだから、長年可愛がってきた俺をうまく逃がしてくれるに違いない。 霧「這いつくばってワンと鳴いてください」 太一「ミキミキーっ!!」 美希「にしし」 邪悪な笑み。 この俺が、セクハラの仕返しをされている。 霧「はやく」 太一「ぐ、ぐう……」 やむなし。 はいつくばる。 太一「……わん」 美希「やる気が感じられなかったのでリテイク」 太一「ぎゃー!!」 恥の上塗り。 基本といえば基本だが。 自分がするのはつらかった。 霧「リテイクです、先輩」 太一「ワン、ワンワンワン!」 太一「これでどうだ文句あるか!」 美希「誰が四回も鳴けと言った、って」 太一「オイ!」 霧「誰が四回も鳴けといいましたか?」 太一「OKわかった。さあ、どの靴を舐めればいいんだ? ん?」 美希「ためぐち?」 太一「舐めさせていただきたく、姫君」 額を床につけた。 美希「靴が汚れるのでいいです」 太一「ゥオイ!」 美希「……さあ、次はヌードショウですよ〜」 美希が、美希が悪魔にっ! 美希「下を脱ぐのです」 太一「いやー、カラダはいやー!」 美希「命と貞操と、どっちが大切なんですか、先輩?」 強者のおごりに目覚めつつある美希だった。 太一「ひーんっ」 パンツ一丁になる。 霧が赤面した。 太一「つぎはなんだよ」 美希「決まっています」 美希「わたしは下を脱ぎなさいと言いました」 太一「…………」 太一「いいのか?」 シリアスに告げる。 太一「これを露出するということの意味、知ってのことか?」 美希「この期に及んでおどしですか?」 太一「馬鹿な。君はこいつの恐ろしさをわかっちゃいない」 太一「これはそのクロスボウのように、初心者にも容易く制御できる可愛らしいものじゃないんだぞ?」 太一「世界中の膜という膜、処女という処女を無限に貪り食う……まさに魔物」 太一「ひとたび解放すれば、世界から処女の輝きが消えることは確実」 美希「……世迷い言を」 霧「ねぇ……わたしも別に見たくない……」 美希「霧ちんは黙ってて」 霧「……う、うん」 しょんぼり。 美希は本気だ。 太一「……すべてを無に帰すつもりか?」 美希「そうだと言ったら?」 太一「なっ、君は、君というヤツは……それでも科学者か!」 美希「科学とは突き詰めるもの。科学とは禁忌の先を進み往くもの」 霧「話全然みえない……」 美希「背後を見ながらの科学に、意味はないんですよ、教授」 太一「くっ、悪魔に魂を売ったか」 美希「そう、アインシュタインのようにです」 太一「やむをえん……」 俺は乳首に触れた。 太一「この爆破スイッチを使うことになろうとは」 霧「……………………」 霧はクロスボウをおいて、トイレに入った。 美希「爆破スイッチ?」 太一「そうだ。私はこいつを、この悪魔の逸物を世に解きはなつわけにはいかんのだ」 美希「……」 太一「すべての淑女《しゅくじょ》に安らぎあれ。妻よ子よ、すまん……愚かな父を許せ!」 太一「……ん?」 太一「どうしたことだ、これは? 装置が作動せんとは?」 美希「……ふふ、あなたの行動など、とうにお見通しだったのですよ、陛下!」 霧「配役変わってるし……」 トイレから戻った霧が、のろのろとクロスボウを構え直した。 太一「配線を……くそう! なんてこった!」 美希「絶体絶命ですね」 太一「ふ……」 太一「忘れたか、乳首は二つあるということを!」 美希「っ!?」 太一「科学に溺れ、人間工学を怠った……美希君、キミの負けだ!」 美希「させるか!」 美希は霧に飛びつく。 霧「えっ、ちょっと……っ?」 額に小さな危険信号がともる。 咄嗟に霧が、切っ先をずらす。 矢が出た。 太一「っっ!!!!」 さすがに目視できても反応はできない。 頬の横をかすめた。 太一「…………」 振り返ると、廊下の壁に突き刺さっている。 太一「……………………」 太一「みみみみ……」 美希「すいません、教授」 太一「教授じゃないっ! すげー危ない! すげえ危なかった今!」 美希「……えはは」 太一「えははじゃないよ君ぃ」 うわ、遅れて冷や汗が出てきた。 太一「し、死ぬかと思った……」 美希「ごめんなさい……」 太一「いや、生きてるからいいけど」 太一「なあ霧ちん?」 霧「え、あ、は……」 霧は呆然としていた。 太一「霧ちんからも謝罪の言葉はないのかなー?」 霧「……え」 太一「命なくしかけたんだけどなー、シャレじゃすまないよなー」 霧「……それは」 太一「それは?」 霧「……………………」 葛藤が見て取れる。 太一「ごめんなさいだろ?」 霧「…………うぅ」 涙ぐむ。 そんなにイヤか。 太一「ごめんなさいは?」 霧「…………ご……ごめ———」 言葉を押し出そうとした瞬間。 俺は無性にリセットをかけたくなった。 太一「やっぱいーや。勝手にお詫びの印をもらう」 霧「え……?」 太一「てやー」 アケスケー! そんな擬態語が聞こえた。 霧「っっっ???」 霧「あ、あれ? あれれ?」 太一「見たか!」 太一「これぞスカートめくりの極み、パラシュート・デス・センテンス!」 太一「スカートへアクセスする、指先が布をつまむその一瞬、全身の関節24箇所を同時駆動させることによって、女子下半身における魅惑的閉鎖空間内に極小の乱気流を発生させる」 太一「この作用により、めくりあげたスカートはパラシュート状に維持され、通常のスカートめくりの数倍の滞空時間をもって下着を衆目にさらしあげるのである!」 美希「……先輩はヒトじゃないんですね、もう」 太一「だが、その長すぎる赤裸々タイムにより羞恥度は飛躍的に高まり、パラシュート効果の持続時間の終焉は、俺の命に対する死刑宣告をも意味するのである! 命と引き替えの大技、それがこのパラシュート・デス・センテンス!」 美希「……大変なんですね、変態さんも」 霧「ど、どうして戻らな……なっなっなっ?」 霧はばたばたとスカートを押さえつけている。 が、押さえれば反対側が、より高くふわりとめくりあがる。 さりとて放置してもスカートはクラゲ状に、下着を露出し続ける。 まるで下方から風が吹き上げているかのように。 太一「反間の計。今まで味方だったものが、これからも味方であるとは限らない」 太一「この教訓をいかせよ、霧ちん」 霧「す、すかぁとがっ……ふわふわ浮いてっ、ちょっと、なにコレ!?」 美希「スゴワザですねー……」 太一「可憐だ。霧ちん」 親指を立てた。 霧「あぁあぁあぁぁぁあぁぁぁぁ……」 霧ちんはあたふたしていた。 もし公衆の面前でやったら悶死するやもしれぬ。 さすが奥義。 曜子ちゃんとか全然動じないからなぁ。 やっぱ慌てふためかれてこそのスカートめくり。 やがて、ゆっくりとスカートが戻っていく。 霧「……は……はぁ……」 とても嫌な汗をかいていた。 太一「パラシュート・デス・センテンスを成立させるための時間は、わずか0.05秒に過ぎない。ではここで、そのプロセスをもう一度見てみることに———」 霧ちんのスカートに手をかけた。 霧「ちぇやーーーーーーーーーーっ!!」 美希「久々に足技が出ましたぁぁぁぁ!」 太一「ぎゃーーーーーーーーーーっ!!」 踵落としが、途中で縦横無尽に軌道を変化させる。 まさに蹴りの乱気流だった。 太一「おおおおおおお……」 霧「あなたは異常です!!」 異常者扱いされた。 太一「いてて……」 霧「行こう、美希!」 プリプリ怒っている。 太一「……あーあ、行っちゃった」 美希「先輩のチャレンジ精神は尊敬します」 太一「うむ。人間いつ死ぬかわからないしね」 太一「まぁ、君らものびのびと生きなさい」 美希「うーす」 美希「しかし……仲悪いですねぇ、お二人は」 お互いに苦笑。 太一「俺と霧とはミキミキを巡って恋のスキテキシュだからな」 美希「そうですね。すごく好敵手ですよね」 太一「……」 さらっと言われた。 霧「美希!」 美希「ほーい。じゃせんぱい、またまたいつか」 にぎにぎと挨拶を返す。 美希は走って、霧に並んだ。 屋上に来てみた。 時刻は10時をまわっている。 どうせ……授業があるわけでもない。 ただ学校空間に触れたかっただけだ。 なんてことのない日常を、味わいたかっただけ。 精神安定剤のように——— 屋上には誰もいない……。 太一「ん?」 でもなかった。 部活……ってやつか。 アンテナを見あげる。 世界から人が消えて。 俺たちは結束することもできず、個人だった。 結束していたとしても無力さに変わりはないだろうけど。 ……個々の問題ともなればこのヘビィな状況は、心を軋ませた。 太一「…………」 直射日光、危ないかな。 そばに目覚まし時計が転がっていた。 先輩の私物だろうか。 アラームを五分後にセットする。 これで起きてくれるだろう。 みみ先輩に寝ぼすけ属性はないのだ。 落下&自殺防止用の金網に、指にひっかけながら階段に向かう。 太一「ん?」 一箇所、金網が脆くなっていた。 軽く押すと、めきめきと倒れていく。 体重をかけたら落ちてしまいそうだ。 太一「危ねー」 夢幻に生きる者の多い群青では、大変な管理問題だぞ。 太一「……」 ま、今のメンバーなら平気か。 全員、日常生活に支障はないはずだ。 ゆっくりと階段に向かう。 扉をあける。 背後から目覚ましのアラームと、 見里「んあっ?」 先輩の奇声が聞こえた。 小さく微笑んで、背後で扉を閉めた。 さて。 部室に来てみた。 友貴がいるかと思ったが、無人だった。 きっと『部活』に精を出しているのだろう。 となれば、今頃は町中か。 ノートによれば、この世界は一週間しか続かないのだから、ヤツの努力は無駄なものになる。 けど、それを教える気にはなれなかった。 友貴の部活が、先輩にとっての部活と、意味を違えるとは思えなかったからだ。 となると。 一年教室にやって来た。 美希と霧がいた。 太一「……食い物ありませんか?」 美希「残念ながら」 太一「その弁当……?」 ライス。 ミートボール。 太一「お、おい、なぜそのようなものが……?」 美希「霧ちんが作ったのですよ。飯ごうとかで」 太一「うわ、いいなあ」 霧「……先輩の分はありません」 きっぱり。 太一「かなり分量があるじゃないか」 美希「多いですよね」 明らかに三人分はありそうだ。 霧「しかしなぜか先輩のはないんです」 太一「……むぅ」 イノセンスが唸る。 太一「じゃー物々交換しよう」 美希「トレードですな」 太一「あめ玉とグミキャンディー。手作り」 二人の目の色が変わった。 美希「てづくり?」 太一「んー。曜子ちゃんがだけど」 太一「シュガー控えめ、美容健康にいいらしい。グミはこんにゃくだね。0カロリー」 二人「0カロリー!?」 ……………………。 太一「わーい」 交換成立。 美希「ママの味がする……」 霧「するね」 美希「ミルクだね」 霧「だねー」 太一「ストーカーの味だけどね」 美希「ほっぺが……わらひのほっぺが……」 霧「ん〜〜〜っ」 女の子だなあ。 おかげでライスにありつけた。 やっぱ日本人だから。 太一「うまい……霧ちんは料理の才能がある」 霧「……おかずはレトルトなんで」 太一「でもうまい」 霧「作らないと、美希がいつまでもお菓子を」 美希「お菓子好きだもん」 太一「お互い食事には苦労しているようだな」 美希「ええ……」 太一「霧ちん結婚しよう」 霧「不可能です」 美希「いやです、じゃなくて不可能らしいですよ、先輩」 太一「……燃えてきた」 霧「水かけますよ?」 太一「またか」 美希「お菓子はもっとあるのですか?」 太一「あるよ。ビスケットとか、サブレとか。曜子先生はお菓子作るの得意だから」 美希「へー、意外」 太一「いい保存食になるらしい」 霧「……恋人、なんですよね?」 太一「え、俺と曜子ちゃんが?」 美希「それは美希も気になりすぎてました」 美希「食事も手につきません」 太一「……ほっぺたパンパンじゃねぇか」 美希「むぐ」 真夏の食い溜め娘が。 太一「いや、一緒に暮らしてただけだよ」 美希「同棲」 霧「同棲」 二人はハモった。 太一「違う。同棲とは違う」 太一「ええと、要するに俺たちは親がいないから、二人とも睦美さんに養ってもらってたんだよ。あ、これは俺の保護者ね」 太一「姉弟みたいなものと言えばいえるけど……俺はそう思ってない」 向こうもそう思ってないし。 だから追い出されたし、曜子ちゃん。 美希「へー、初耳」 霧「……あやしい関係だと思っていたのに……」 いや、実際あやしいです。 太一「まー、そこはホレ。血縁ではないし」 美希「支倉先輩も謎が多い人ですよね」 太一「まったくだ」 太一「さあ、特別に千歳あめをつけるから、みんなで七五三気分に浸ろう」 美希「わー、ちとせあめだ!」 霧が取り上げる。 美希「うおー、何するだ!」 霧「お菓子だけじゃダメ」 美希「自分だって食べてたくせにー!」 霧「ちゃんとごはん食べる。健康管理、これからは自分でしないといけないんだよ?」 美希「……へーい」 うーむ。 霧「なんですか? いやらしい目でじっと見て……」 太一「いやらしいって言うな」 太一「いや、いいコンビだなって思って」 美希「お花ちゃんたちですから」 太一「デビューさせてやりたいくらいだ」 美希「今デビューしてもなぁ……」 霧「最高八枚までしか売れないね。CD」 美希「ミリオンは夢のまた夢」 霧「じゃあわたし、二枚買ってあげる」 美希「じゃこっちも二枚買う」 霧「十枚だね」 美希「うん、十枚。二桁」 くすくす笑う。 ほんと、仲睦まじい。 その様子は、俺をほんの少しばかり、潤した。 帰路を歩く。 太一「うーむ」 結局、何もない一日を過ごしてしまった。 リセットがかかると知っているせいかな。 どうも身が入らない。 それに……学校に行っても賑やかさは感じられない。 世界はガラスキになっている。 八人では世界とは言えない。 永遠の一夏。 俺たちは、時の渦にとらわれた人類の残骸なんだろうか。 それとも……別の意味が。 坂の途中、立ち止まる。 道の脇にある雑木林。 思い出す。 思い出す……。 新川豊が雑木林を眺めていた。 俺はそんな新川のもとに近寄り、声をかける。 太一「どうした?」 新川は汗をかいていた。 見るからに夏の汗ではない。 よろと後ずさる。 車が来た。 太一「新川!」 新川は轢かれて死んだ。それは俺のトラウマになった。 ……などということはなく、 太一「あ、田崎商店のデコ軽トラだ」 ド派手なソイツが、時速三十キロでゆっくりと通り過ぎていく。 福顔のオヤジが、俺に向かって『いつもありがと〜』と手を振った。 俺はお得意様だから。 振り返した。 太一「昭和時代のマニアックな飲料水の入荷、いつもありがとー!」 アン○サ。 メ○ーイエロー。 ネーポ○。 胡椒警部。 ゲータ○ード。 伝説のソフトドリンクたち。 元鉄オタだからビジネスもマニアックなのだろうか。 どうやって入荷しているのかは知らない。 とにかく新川は死ななかった。 ピンピンしてる。 太一「今おまえは生死の境を彷徨った。俺がこうしてがっしと腕をキャッチしなかったら、その灰色の脳細胞はアスファルトの上でグロ画像になっていただろう」 新川は震えていた。 太一「新川?」 新川「あ……悪い」 我に返る。 新川「なんか……雑木林の奥とか見てたら……すげぇ気分悪くなってきて……昔から、そうなんだけどさ……わけ、わかんねぇんだけど……」 顔を手で覆って、立ちくらみに戸惑うように、しばし。 青い空を見あげて、喘ぐように息を吐いた。 太一「…………」 新川『俺、足が片方あんま動かなくてさ』 外障だと思っていた。 群青にも少数ながら、外部障害保持者を受け入れる枠はあったから。 けど豊は内障……内部障害だったのかも知れない。今にして思えば。 森の中。 木々に囲まれた閉鎖空間。 俺も苦手だった。 昔、心に傷を穿《うが》つ出来事があった。 新川の気持ちを、だから俺は少し理解することができた。 居間には相変わらず、睦美おばさんの姿はない。 当たり前である。 死んだんだから。 いや、死んだのだろうか。 人類全員かくれんぼ説もまだ生きている。 脳だいぶヒビ割れちゃってるんじゃない?と思わんばかりにくだらない説だが、比定する根拠はない。 産業もエネルギーも報道もうっちゃってかくれんぼとは、人類も弾けたものである。 滅亡滅亡言っているが、実際は消失なわけで。 さておき、優しい睦美おばさんが出てこないわけだ。 家にまったく家族臭が感じられない。 もともと希薄だったが、まったくなくなってしまった。 洗い場をのぞく。 水を張ったタライの中に、トマトがみっつ浮いていた。 太一「トマトじゃ」 驚いた。 俺が入れたものではない。 さっそく食う。 新鮮なトマトだ。 口の中で、詰まった実がじゅわっと潰れた。 頬がひきつるほどうまい。 とにかくこの家に食い物はないのだ。 いつも睦美さんが会社帰りにできあいを買ってきてくれた。 だから料理の機会は少なく、材料も常備されていない。 そういやじゃがいもだけはあった気がする……。 机の上を見ると、メモが置いてあった。 『夕食がないこともない』 曜子ちゃんか。 食い物で釣ろうとしている。 ありありと。 そんな手に俺が乗るか、冷静に考えればわかることだ。 太一「いってきます」 行くに決まっていた。 蝋燭に火を灯す。 日記を書く。 克明に書く。 来週のために——— CROSS†CHANNEL 水曜日。 ニュートンも失笑、惰性の法則に従って学校に行く。 坂を歩く。 いつもながら勾配がきつい。 歩みは遅くなる。 ようやっと平らな場所に出る。 太一「……!」 予感に焙《あぶ》られて、意識が加熱した。 理性よりはやく体は動く。 振り返った! 太一「…………いないか」 人の気配を感じたのに。 そう……七香のだ。 祠に行ってから、一度も姿を見せていない。 彼女はこの世界に起こっていることを知っている。 ではなぜ俺は、七香を捜さないのか。 おそらく……見つからないから。 七香は見つからない。決して。 そんな気がした。 脱走させないための門は、とにかく厳めしいという印象があった。 なぜ脱走させてはいけないか。 人を傷つける可能性があるから。 ま、一種の半隔離施設だ。 安心していい、危険人物たちは滅びました。 世界中に八人だけです。 あと一般市民も滅びました。 だから被害者は出ません。 わはは。 太一「と、自虐ネタはここまでにして」 死んだ貝のように開いたままの門を抜ける。 荷物を置きに教室に。 太一「おや?」 冬子の姿がない。 来ていると思ったのに。 いつもの窓際。 そこにお嬢様の姿はない。 胸騒ぎがした。 いつもと違う行動を取らないでくれ。 願いにも似た思い。 ズタ袋を置いて、学校を彷徨う。 はじまって三日目の『いつも』。 だけどそれは、がらんどうで満たされていて。 そうだな。 一年教室に行こう。 ミキリコンビがいるかも知れない。 誰もいない。 見ると、二人の机に荷物は置いてあった。 来てはいる。 校内のどこかにいるのだろうか。 考えれば、霧と美希の家の中間地点に、学校はある。 待ち合わせに、通い慣れた学校はちょうどいいのかも知れない。 何をするにでもだ。 窓から外を見る。 プールが見えた。 太一「……へえ」 遊んでいた。 楽しげに。 かすかな声が届く。 美希「そりゃー!」 霧「あ、だめだってば、だめー!」 美希「そらそらー、よけることもできないかー!」 霧「だって水の中じゃないっ、あっ、髪濡れる、濡れちゃうからっ」 美希「どこが濡れるってーっ?」 霧「なんかオジサンっぽい」 美希「心はおじさんなの、てりゃー!」 霧「あー、髪がー」 霧「しかえしっ!」 美希「きゃー!」 幸せな光景を見ていた。 霧「んのー!」 美希「てりゃりゃー!」 霧「くらえー!!」 美希「うわー……なーんて、くらわないもーん」 霧「あ、ビート板使うの禁止!」 美希「楯だよー」 霧「ずるー!」 美希「髪の長さが違う分、ハンデいるもん」 なんだよそりゃ。 苦笑してしまう。 霧「けど、片手になった分、攻撃力は下がってる!」 美希「しもうたー!」 霧「狩りの時間だー!」 美希「狩猟解禁!?」 ざぶざぶと動き回りながら、水をかけあう。 無邪気なもんだ。 トクン 太一「……!」 心臓が跳ねた。 軽く胸を打たれて。 無意識に心臓を押さえた。 臓器に心があるわけではない。 俺の感じたことが、心臓さえノックしてのけた。 そのことが嬉しかった。 霧「きゃあっ!」 美希「あははははっ、転んだー!」 霧「ずぶぬれぇ……」 美希「どんくさーい、にぶーい」 霧「……言ったなぁ」 美希「おひょ?」 霧「濡れたらもう泳げるもんね」 美希「あっ、あっあっ、接近戦はだめー!」 霧「平泳ぎでクロールに勝てるもんかぁ!」 美希「あたふたあたふたっ」 霧「水浸しにしてやるっ」 美希「だめー! 濡れたら髪がワカメになるー!」 霧「ワカメちゃんにしてやるー!」 美希「わっ、わっ、まずっ」 霧「そらー!」 美希「ぎにゃーーーーーーー!!」 弾ける水の音。 とめどない笑声。 やんわりと流れる時間を思わせて、優しい。 優しい世界の一場面。 日記に書こうと思った。 この気持ちを、忘れないよう。 俺はずっと、二人の少女が戯れる様子を眺めていた。 友貴がいた。 保健室の中をうかがっている。 太一「友貴ー」 声をかけると、背中がびくりと跳ねた。 友貴「た、太一か……」 太一「学校にいたんだな」 友貴「ああ、ちょっと様子見に……ちょっとこっち」 太一「お?」 連れて行かれる。 友貴「ここならいいかな」 太一「どうしてこんなはしっこに」 友貴「……いや」 口ごもる。 太一「で、平和維持活動部はどう?」 友貴「生命維持活動部。そっちはなんとか」 友貴「太一は、食べ物とかは平気なんだよね?」 太一「まあな。今のところ困ってない」 太一「一週間もてばいいし」 友貴「は?」 太一「こっちの話だよ、キミィ」 太一「保健室に用事か?」 友貴の顔がひきつった。 友貴「ノ、ノー」 なんで英語やねん。 太一「隠し事があると見た」 友貴「ないと見た」 太一「……保健室、友貴、放課後、童貞……この四つのキーワードから導きだれる結論とは……」 推理の時だった。 友貴「いや、童貞関係ないから」 太一「難問だな。こんな時はメタ推理だ」 友貴「また変なこと言いだした」 太一「多世界敷衍推理《たせかいふえんすいり》!」 太一「これは各要素から派生する無数の可能性の全てを並列して思考し、それら無限の選択肢の中からもっともそれっぽいものを任意に抽出する……量子コンピュータっぽい推理法だ」 友貴「あてずっぽう、と言わないかな、それ」 太一「そのためには思考を活性化させる糖分が必要だ。おかしください」 友貴「…………」 太一「ギブミーガム、キブミーチョコレート」 友貴「……太一、いつもあめ玉とか持ってるのに……」 太一「あれは血糖値が下がったときの緊急用」 友貴「糖尿病か」 友貴はポケットをごそごそと漁る。 今や食い物だったら友貴である。 Tomoki is food いや、もはや、友貴が、食い物なのである! ……んなバカな。 友貴「ほら」 本当にガムとチョコレートが出てきた。 太一「おまえ、すごいヤツだな」 友貴「え……何が? つうか、自分で欲しいって言ったんじゃないか」 太一「これで俺の特殊な脳みそも安泰だ」 友貴「???」 ガムとチョコレート。 同時に口に放り込む。 友貴「うげっ」 太一「同時に味わうとうまい」 友貴「そ……」 呆れていた。 太一「推理の続きなんだけどさ」 太一「怪我でもしたのか?」 少し驚く友貴。 すぐ皮肉げな表情に、取ってかわられる。 友貴「そう……怪我、したんだ」 友貴「……いい気味だよ」 太一「はい?」 友貴「……なんでもないから。じゃあね」 去っていく。 太一「ふーむ」 ガムごと、チョコを嚥下する。 俺はガム食う属性の人だ。 太一「……怪我というより、心の病気の方だったか」 保健室。 眼鏡で巨乳の養護教師(男口調であることが多い)が必要な空間である。 眼鏡で巨乳の養護教師がいない保健室など、ネタの乗っていない中トロのようなものだ。 だがさすがに今、眼鏡で巨乳の養護教師を期待することはできない。 かわりに曜子ちゃんがいた。 太一「眼鏡つけて白衣着てよ」 曜子「……うん」 寝台の方に消える。 戻ってくると眼鏡をしていた。 調達がはやすぎた。 しかもなぜベッドから……。 ついで、養護教諭が使うロッカーに。 中には白衣があった。 戻ってくる。 発注通り完納。 所要時間10秒たらず。 曜子「……これでいい?」 太一「テンプルトン・ペック以上」 曜子「そう」 認めないわけにはいかない。 バストもまあ、なかなかのものだ。 白衣の養護教諭としての曜子ちゃん。 曜子先生『脱いで。診察できないから』 曜子先生『下も』 曜子先生『性機能を診察するから』 曜子先生『……だめ。私に触れたら、ただじゃおかない』 曜子先生『……そう……じっとしてて……いい子……』 太一「う、うう……」 けっこういいんじゃないか。 曜子「太一は今、私で淫らな妄想をしていると見た」 太一「……」 敗北感。 つきあいが長いとこれだから。 太一「もういいよコスプレ」 曜子「コスプレをさせられていた……」 ぽつりと呟く。 いつもの彼女に戻る。 やっぱりメガネはベッドに戻しに行った。 太一「で、どうしてここに?」 曜子「……宮澄が怪我を」 ベッドをのぞきこむ。 太一「みみ先輩?」 曜子「もう寝ているから」 太一「……手当は?」 曜子「しておいた」 まじまじと見つめる。 太一「珍しい……自発的に人のためになることをしている」 曜子「しなかったら……太一にいじめられると思ったから……」 太一「なるほど」 それは確かに。 頬を両側からつまむ。 太一「してもいじめる」 曜子「……そうね」 端正な顔を、粘土のようにこねる。 曜子「やめて」 けど本気で抵抗はしない。 抵抗の仕方を知らないと。 基本が、排除するかスルーするかのどちらかだから。 太一「うりうり」 曜子「うー、うう……」 太一「やわらかいほっぺだなぁ」 曜子「……いたい……いたすぎ……」 太一「ほっぺなんて持ってるから悪いんだ」 曜子「むちゃくちゃ言う」 早々に飽きる。 太一「で、先輩の怪我の具合は?」 曜子「軽い擦過傷と打撲。命に別状はなし」 こころなしか赤くなった頬で、言った。 太一「そっか」 見れば、軽い寝息。 苦しんではいないようだ。 太一「よく寝てる」 額の髪をかきわける。 見里「んんー」 喉を鳴らす。 萌ゆる。 次は別の箇所に手をのばす。 がっしっ 太一「ぬぅ!」 曜子ちゃんが、俺の手首を握っていた。 成人男性並みの握力! 太一「……何するのさ」 曜子「太一は今、ボインタッチをしようとしていた」 太一「ノ、ノー」 曜子「英語になるところが怪しいと思う……」 曜子「太一は英語が苦手なことも、重要な判断ポイント」 太一「くっ、そこまで俺を研究しているとは……」 やはり世はすべからくメタゲーム。 曜子「私の目が黒いうちは、このボインには触れさせない」 太一「おのれ!」 だが接近戦では勝ち目はない。 太一「こうなったら……キミの胸を揉んでやるさ!」 片方の手を、彼女の胸部に向けて繰り出す。 曜子「……そう来ると思ったわ」 曜子ちゃんの双眸《そうぼう》が、不敵な自信に満ちた。 知ったことか! たとえ罠があろうとも。 太一「このまま揉み貫く!」 がっしと、彼女の乳に左手を噛みつかせた。 避ける素振りも、防ぐ様子もない。 やはり罠か。 曜子「かかった……」 太一「なに!?」 曜子「混乱した太一は、目の前の私に襲いかかると……読んでいた」 太一「ここの感触は、まさかっ?」 曜子「そう……ノーブラ」 太一「あっ、あああっ、なにぃ!?」 柔らかい。 制服の上から、想像を絶するソフト感触が! 太一「あっ、あああっ」 みるみる知が失われていく。 太一「お、俺のソフィア(知)が……」 柔らかく張りのある胸に触れることで、俺の知性は分解されてしまうのである! 胸が肉質が高ければ高いほど、その分解速度は加速される。 太一「くっ、なんて……胸だ……ごっそりと頭が悪くなっていくようだ」 気がつくと、両手で揉み込んでいた。 曜子「……んっ……」 熱っぽい掠れた声。 耳に入って、理性を蒸発させる。 上下左右四方八方東西南北。 アナログコントローラー並の自由度で、胸を揉み往く。 曜子「たぃ……ち、んっ……」 太一「く、なんてソフィスティケーテッドなバストなんだ……」 曜子「わけ、わからない……ぁ……」 ああああ。 俺、誘惑されちゃってる。 まんまと誘惑されちゃってる。 見里「ふわあ〜」 先輩が起きてきた。 見里「……いけない……眼鏡したまま寝て……寝て……」 俺たちの痴態に目を留めた。 見里「せやー!」 手刀が振り下ろされた。 乳首と指先を切断してのける。 見里「ぺけくん!」 太一「は、はい!」 見里「今のはイエロー停学ですから!」 がっしと指を突きつけられる。 レッド停学とかあるのかな……。 太一「し、しかしソフィスティケーテッドなおぱい子がですね!」 見里「都会的に洗練されたおぱい子のことなど理由にはなりません!」 先輩は首を落とすような勇ましい仕草で、腕を薙いだ。 見里「お久しぶりです支倉さん」 曜子「……ん」 見里「本当に……いたたた」 太一「大丈夫ですか?」 見里「ああ、なにやら資材が崩れてきて……」 太一「曜子ちゃんが助けてくれたんですよ」 見里「まあ……支倉さんが?」 曜子「助けたのは私じゃないわ」 太一「じゃあ誰」 曜子「……島友貴」 太一「友貴が?」 ははーん、それであいつさっき……。 太一「先輩、あいつ照れ屋なもんだから……」 みみ先輩は、呆然としていた。 太一「……もしもし?」 見里「友貴が……私を……?」 狼狽しているようにも見える。 いつ頃からか。 この二人は、全く口をきかなくなったのだ。 部室には友貴。 先輩は放送室。 互いに同じ空間に居合わせることさえまれになった。 誰が見ても、悟ることができた。 ただその理由だけが、秘められたままで。 俺たちの不和は、誰の間にもあったのだ。 気がつくと曜子ちゃんは消えていた。 新川豊は元気だった。いつもだいたい。 レスポンスが早い。 話していてキレが良かった。 ノリも良かった。 その新川が、ある時こんなことを言った。 新川『姪がさー、やっぱ群青行くんだけどさ、いろいろ教えてやらんと』 揉めた。 しかも相当に可愛いとのこと。 さらに揉めた。羨望と嫉妬だった。 この二つが揃えば、だいたいどんな相手でも憎める。人間は。 俺は憎みはしなかった。 続く豊の発言が、よりさらなる衝撃を引き起こしたからだ。 新川『本気で、妹みたいなもんなんだよ。同居してるし』 可愛い血の繋がらない妹的存在と暮らしている。 しかも後に聞いたところでは、両親はほとんど家に帰らないらしい。 こういうシチュを、逸般的に同棲と言います。 二人とも群青に通うことになる。 新川『おー、姪のことも紹介してやるよ』 新川『……たいしたもんじゃないんだけどな……あんま期待すんなよ?』 たいしたものじゃない。 後に俺は、実際に彼女と会うことになった。 新川「じゃ紹介すると、こいつが佐倉霧。家族みたいなモン」 一般的にこれを青天の霹靂と言います。 新川「どうした、二人とも黙っちゃって? もしかして二人とも、照れちゃってるのか? おいおい霧はともかく太一、こんな山猿に照れる必要ねーって」 霧「豊、うるさい……」 霧「……佐倉霧、です」 太一「く、黒須太一です」 ぎこちなく頭を下げる。 太一「お、お噂はかねがね」 霧「……はー」 かかと あの戦慄の踵《かかと》使い……だったのだ。 確か復讐を誓って別れた。 霧の目に、好意のかけらさえ、まったく見受けられない。 というか、ジト目である。 霧「こちらもいろいろと噂、聞いてます」 太一「そ、そう?」 俺は緊張しつつ、ティーカップを口につけた。 太一「いやー、この紅茶、甘いなー! まるで砂糖みたい、うん。それになんだかざらざらするね。新食感ってやつか」 霧「…………」 きつい。 ことほどさようにツッコミとは、ある意味慈愛でもあるのだ。 新川「つうか、ナチュラルに砂糖じゃん、それ」 太一「……いたみいる」 身に染みた。 霧「……なんでも、手当たり次第にセクハラをしてらっしゃるとか」 新川「そーなんだよコイツ、やることすげーの。かなりびびるよ」 太一「ああ、いや、それはね、セクハラといいますか……その……愛情表現って感じで決してやましい意図ではないという」 霧「そういうの、セクハラって言います」 太一「あー、そうだったけかな! ハハハ……」 見えないナイフが、ざくざく突き刺さってくる。 霧「……嫌がってる子も、いますよね?」 太一「あー、嫌がる相手にはちゃんと慎んでるよ? その、心の底から嫌がる相手は、わかるんで、ハイ」 霧「じゃあ、みゆきはセクハラを望んでいるんですか?」 太一「あー、まあ嫌がってる、かな? けどそれは表面的でしてな、お嬢さん。ホレ、口ではなんといっても体は正直みたいな」 霧「……最低」 吐き捨てるような小声。 俺には聞こえた。 バームクーヘンの縞模様を薄くはがすことに熱中している豊には、聞こえない。 このガキ、空気を読むということをしないのか。 アイサインをばちばち送る。 豊「!」 豊が気づく。 そうだよ、助けてくれ! 俺は目で雄弁に語った。 豊「!!」 豊は部長クラスの誇らしげな顔で、任せておけとばかりに小さく頷く。 新川「あ……やべ、生理はじまった。俺、ナプキン買ってくるから、その間二人で話しててくれよな?」 霧「いて」 太一「いてくれ、頼む」 新川「?」 何も理解していなかった。 二人きりになったら、気まずさの爆弾が炸裂しそうだ。 霧「わたしには、みゆきがスカートをめくられたがってる……とは思えないです」 太一「んー、そ、そう?」 豊は再び、バームクーヘンを解体しはじめる。 アカン……この人……。 霧「だから黒須先輩のしてることは、どうかと思います」 ハッキリ言う。 冷静に見ると、嫌いなタイプじゃない。 むしろ好ましい……近づきたいと思わせる少女だった。 少し気が抜けた。 ちゃんと話したくなった。 太一「……佐倉さんは、正義漢だな」 むっとしたようだった。 霧「それがなにか?」 太一「いや、いいんだ。そういう人間は、どこにだって必要だと思うし」 霧「……おっしゃる意味がわかりません」 太一「馬鹿にしてるんじゃないよ」 太一「今まで、キミみたいなタイプ、俺のそばにいなかったからさ」 霧「……そうですか」 見たら豊は座ったまま寝ていた。 さすがマイフレン。大物である。 おかげで少しつっこんだ話ができそうだ。 太一「群青はどう?」 霧「……どうといいますと?」 太一「クラスに編入されてさ、いろんなタイプのヤツがいる。言葉の通じないヤツ、周囲が目に入らないヤツ、突発的に暴れるヤツ、まったく普通人みたいなヤツ」 太一「けどみんな、世間に適応できなくて弾かれたのばっかりだ」 太一「みんな、日本で屈指のどうかしてる人間なんだ。もちろん、俺もキミもだよ」 霧「……」 太一「会話できる人間が何人いる? 友達と呼べる関係を築ける相手が何人いた?」 太一「仮に会話が成立しても、そいつがどんなはずみで暴走するかわからない。不安はいつもつきまとう」 太一「たとえば……ガラスの割れる音を聞くと、異常に攻撃的になるヤツとかさ。うちのクラスにいるんだけど」 霧「さっきの話と、どう関係があるんです?」 太一「キミは俺に正義を説いた」 太一「……道理をわきまえた相手として、俺を見ている」 小ぶりの眉根が寄った。 霧「そういう意味では……」 太一「そういう意味でしょ」 太一「俺の行動をどうかと思う。そう指摘して弾劾する。直してもらわなければならないと思う」 太一「群青でふりかざす考え方じゃないなぁ」 太一「キミがただの鈍い子なのか、それとも逆に、鋭く俺の性根を見抜いているのかはわからない」 太一「けど……久しぶりに、新しい出会いの中で人間扱いされた気がした」 霧「…………」 ぽかん、と口を開く。 気を抜くと、なるほど歳相応に可愛らしい。 豊の目は節穴だな。 霧「……そーいう話をしているのではなく!」 太一「みゆきは」 激昂が凍りつく。 太一「あれで結構、重いんだ」 太一「詳しくは知らないけど、本人が孤独を感じすぎると、発症するみたい」 太一「外界失認ってやつだ。世界の輪郭があいまいになる。一種のトリップだな。もっとも屋上から落ちやすいタイプ」 霧「…………」 太一「知ってた?」 霧「……いえ」 太一「たぶんあの子は、移動になっちゃうと思うよ」 霧「え……移動というのは……?」 太一「ちゃんとした病院施設に送られるってこと」 霧「それって……」 霧は絶句したようだった。 太一「ホラ、学校だとどうしても孤独な時間ってあるだろ? 周囲が全員健常者なら気づかってあげられるけどさ……みんな自分のことで精一杯だし」 太一「みゆきのもっとも嫌う、孤独な時ってのが、どこにでもある」 たとえば放課後。誰もいない教室。 たとえば校庭。無人のトラック。 たとえば教室。人がいても人同士の接続がない、断絶空間。 太一「どこにだって空白はあるのさ」 太一「彼女が放送部に入ってるのは、ウチが自意識を保持している連中の集団だからだ」 太一「そういう意図のもとで放送部は成立してる」 太一「他に部活なんていくつもないからね」 肩をすくめた。 太一「友達を作るのは大変だ。でも作らずにはいられない。どうしてかわかる?」 霧「……いえ」 太一「必要だからだ。心を育てるためには」 霧「…………」 太一「豊とは友人になれた。これはいいことだよな」 太一「みゆきともなりたいと思った。けど、ちょっとやり方がまずかったかもしれない」 太一「けど俺は、こんなことくらいしか知らなくてなぁ」 苦笑する。 太一「やっぱ俺もクレバーだもんでさ」 霧「……じゃあ……セクハラしてたのって……わざとですか?」 太一「下心もあるよ」 正直に答える。 霧「ぐっ」 太一「俺って理性が異常に脆くてさ」 太一「けど、意識的な部分もある」 太一「あの地味子ちゃんの、思い出の一つにでもなればなぁと」 コゼーからポットを取り出す。 まだ熱い。いいコゼーを使っていた。 紅茶をカップに注いで、そのまま飲む。 太一「みんな繋がりが欲しい」 太一「俺たちだけじゃない。誰だって欲しい」 太一「携帯、ネット、手紙、友達」 太一「みんな繋がりじゃないか」 太一「そこに誰かいると期待して、言葉や情報や電波を発信するんじゃないか」 太一「俺は自分が触れる相手が、がらんどうだなんて思いたくない」 太一「だからセクハラする。し続ける」 太一「……キミがどんなに止めてもやーめない」 飲み干す。 太一「止めたかったら、止めれば。キックでも腕ひしぎでもシックスナインでも」 霧「……シックスナイン?」 太一「またそうすることで、キミと俺との繋がりができれば、いいなと思うよ。キミは迷惑かも知れないけど」 霧「……………………」 うつむいて。 少女は思索にふけった。 俺が突き落とした、思考の迷宮に。 自分の吐いた言葉を反芻する。 まるで自分が『不健全ながらも頑張ってる』みたいな。 そんな欺瞞《ぎまん》さえ呑み込んで、奥底に隠そうとする意識があった。 霧「納得は、できません」 やがて霧は決然と言った。 霧「今は、それくらいしか……」 太一「そう」 それで良かった。 簡単に騙されてはダメだ。 世界はあまりにも汚れているのだから。 霧「それはそれとして、改めまして佐倉霧です」 礼儀正しく頭を下げた。 太一「へ?」 霧「佐倉……霧です」 太一「あ、うん。黒須太一です」 結局、ぎこちない対面式だった。 太一「さて、じゃ俺はそろそろ帰るけど……豊も寝てるし……」 立ち上がる。 霧「すいません。よく、寝るんです」 太一「そうそう、もし潤いが欲しかったら、放送部に来るといい」 霧「……はい」 太一「けど来たら、いじるぞ。覚悟の上、それなりに対策してから来るように」 霧「…………」 霧は皮肉げに笑った。 俺が見た、はじめての笑顔がそれだった。 みゆきは、一年待たずにいなくなってしまった。 後に美希と知り合った霧は、二人そろって放送部に入ることになった。 さらに意識は飛び、当時を克明に思い出す。 太一「おー、来たなー」 美希「おいっす」 霧「……ども」 二人は花壇に植えられた、二輪の花のようだった。 太一「FLOWER’S!」 見里「それは?」 太一「二人の芸名ですよ。放送部では芸名が必要なんだ。みんな持ってる」 美希「ふぁ〜」 友貴「またそんな嘘ンガッ」 なんとか嘘のあたりで殴り飛ばせた。 太一「友貴はインモラル、桜庭がミスター自警団、そして俺は愛貴族」 美希「本当ですか?」 太一「いかにも!」 美希「それで会話してみてください」 太一「ヘイ、インモラル、シスコン具合はどうなってるよ? 相変わらず愛変わらずって感じなんだろ?」 見里「しすこん?」 友貴「黙ってくれぇぇぇ」 首を締められた。 本人がいるので、友貴も必死だ。 太一「……わがっだ……ごうざん……ごうざん……じぬ……」 桜庭「愛貴族だけに愛に死ぬのか?」 太一「天国のママンに『会い』に死ぬことになりそうだ……」 見里「こら! ぼーりょくは停学ですよ」 友貴の頭を、みみ先輩がチョップする。 友貴「あ、うん……」 太一「……死ぬかと思った」 友貴「自業自得なんだ」 霧「……はぁ」 霧はいきなり疲れていた。 太一「なんだなんだその虚弱っぷりは」 太一「放送部は名義上運動部なんだからな?」 見里「……またそんなことを……」 太一「三年生の方々がめでたくご卒業となり、その穴を埋めるかのように入ってきた君たち二人に、桜庭先生はたいへん期待しておられる」 桜庭「ああ」 桜庭はクールな物事で立ち上がると、突っ込んだまま抜けなくなった指からビンをぶらさげたまま、語り出した。 桜庭「今日はみんなに、柿の種の教訓を話したいと思う」 太一「いいぞ先生!」 見里「指、鬱血しますよ」 桜庭「柿の種にピーナッツ入っているものがある。知っているな」 無視して桜庭は話す。というか聞こえてない。 美希はこくこくと頷く。 素直だ。 桜庭「そのピーナッツが許せないという奴は、意外と多い」 美希「そうですね」 桜庭「オレはつねづね、その欺瞞《ぎまん》が許せなかった。なぜだと思う?」 太一「は、ピーナッツが入ってこそ、ピーナッツ入り柿の種であるからですな?」 桜庭「そうだ。イヤなら純正の柿の種を食えばいい。ピーナッツ入り柿の種を手にピーナッツがイヤなどという弱音は、ピーナッツ入り柿の種の尊厳を損なうものだからだ」 桜庭「欺瞞だ」 太一「おっしゃる通り!」 桜庭「だからオレは、あえて柿の種のピーナッツだけを食っている」 太一「……馬鹿かおまえは」 醒めた。 桜庭「わかってくれたか」 太一「聞けよ」 桜庭「たまに右の耳が遠い」 これは本当だ。 日常生活に支障はないのだが。 太一「オレを素に戻らせたおまえの引かせパワー、許し難い」 太一「おまえのサクラバという苗字から、女王陛下の名においてクの文字を剥奪する」 桜庭「なに?」 太一「おまえは今日からサラバだ。さらば桜庭。こんにちはサラバ」 言葉って面白い。 桜庭「わかった」 友貴「いや、認めるなってば」 桜庭「オレの話はこれで終わりだ」 再び座り込むと、ビンを抜くため指をひねりはじめた。 見里「……こんな人たちです」 まとめていた。 美希「よくわかりました」 霧「……」 見里「やっていけそうですか?」 美希「なんとか、平気そうです。ね、さくちん?」 霧「……やっていけと先生に言われましたんで」 見里「まあ、無理強いではないので……イヤだったら抜けてもいいですから」 太一「あん、だめぇ……職場には花がいるのぉ」 見里「……だそうです」 買収するか。見ればまだガキだし、もので釣るのがいいだろ。 太一「買収するか。見ればまだガキだし、もので釣るのがいいだろ。入部祝い作戦だ」 友貴「また口に出してるから、太一」 美希「……」 霧「……」 太一「んー、よしこれだ」 太一袋から二つのアイテムを取り出す。 太一「ヤマンバ美希隊員!」 美希「おす、ヤマノベです。はい!」 アイテムの一つは色紙。 太一「君にはあの大スターにして整形のプロ、ちょっとやんちゃんな少年だいすきマイルドロボ、マイ○ル・ジャク○ン———」 美希「サ、サイン色紙っすか!?」 太一「を心の師と仰ぐ愛貴族・黒須太一のサインをあげよう」 押しつけた。 美希「ぁゃゃ」 太一「ぉょょ」 太一「で、佐倉霧隊員!」 霧「……え?」 太一「君にはベースボールを今たらしめたビックマン、ベー○・ルース———」 霧「……」 太一「太一人形を進呈しよう」 見里「繋がってないじゃないですか」 見里「も、ぜんぜんですよ、ぜんぜん」 先輩は眼鏡をつけていることからもわかる通り(?)規則の人。 無秩序なものは気になるらしい。 友貴「さては反応がなかったからはしょったな」 太一「……さあ、佐倉君。明けても暮れてもこの人形を肌身離さずかき抱き泣き濡れる夜の小さな友にしても良い」 霧「…………」 手も出さなかったので、ひもで首にかけた。 美希「ご自分で作られたので?」 太一「そうとも」 桜庭「まめなやつだ」 美希「ピーナッツ専門なだけに、言うことも穀物的なんですね〜」 三人「!!!」 俺と桜庭と友貴は、顔を見合わせた。 このギャグは気に入った。 太一「合格」 友貴「うん」 桜庭「いい」 美希に親指を立てた。 美希「え……あれ、はい?」 霧「…………ぽいっと」 霧「あれ、取れない?」 霧は人形を捨てようとしていた。 太一「待てーい!」 霧「むっ」 しまったという顔。 太一「捨てようとしたのか? 捨てようとしたんだろう?」 勝ち誇る。 太一「残念だったな、『たいちにんぎょうをすてるなんてとんでもない!』のだ!」 霧「意味がわかりません」 太一「すげー重要なアイテムなんだよ!」 太一「だから捨てようとしても無理なのだ」 霧「……呪いですか」 美希「わー、じゃこのサインも!」 美希はサインを窓から捨てようとする。 どこからともなく声が響く。 『らぶきぞくのサイン』はすてられない! 美希「はゃんっ!?」 太一「わはははははは!」 友貴「魔法使いかおまえは」 見里「入部祝いどころか……入部呪いじゃないですか」 前後の扉が同時に開く。 新川「ちーす、霧って来てるかー?」 冬子「ちょっと太一! 待っててって言ったじゃないの! どうして一人で行っちゃうのよ!」 同時の来客。 見里「まあ、いらっしゃい」 見里「二人もお客さん。冷たいお茶を出しましょう」 あたふたと冷蔵庫に。 桜庭「今日の冷蔵庫はカラだぞ、部長先輩」 見里「はうっ」 見里「ちょっと買ってきますんで、ひきとめておいてください!」 太一「らじゃる」 冬子「あ、いいです……そんなの……」 見里「絶対ですよー!」 ぱたぱた腕を振りながら、廊下に消えた。 霧「……豊、なにしにきたの?」 新川「いちおう挨拶に。その……身内が世話になるわけだしよ」 霧「いらない。帰ってよ」 押し出そうとする。 友貴「新川も入部するんだ?」 新川「えっ、俺野球部だし」 美希「野球部なんてありましたっけ?」 桜庭「ひたすら野球盤を遊ぶ、部員三人だけの組織だ」 美希「……はえー、ふぁにーな」 太一「この学校自体ふぁにーだからな」 冬子「あー、太一! あんたいったいどういうつもりで約束すっぽかして……」 太一「アイテムは人に譲ることはできるぞ」 美希「あの、桐原先輩、これあげます!」 冬子「え?」 受け取る。 冬子「やだコレ? 手から離れないわよ? え、接着剤?」 ぷんぷん振るが離れない。 冬子「ちょっと、どういうことよっ!?」 『らぶきぞくのサイン』はすてられない! 『らぶきぞくのサイン』はすてられない! 『らぶきぞくのサイン』はすてられない! 太一「無意味にすてるコマンドを繰り返すな。システムメッセージがうるさい」 冬子「わけわかんないし聞こえないそんなメッセージ」 太一「人にあげるしかないな」 冬子「じゃあアンタが責任取ってもらいなさいよ!」 たいちにはあげられない! 冬子「どうしてよ!」 太一「仲間でないと受け渡しはできないんだ」 太一「おまえと俺とは他人も同然だから、受け渡しはできない」 冬子はぱくぱくと口を開閉させた。金魚みたい。 冬子「な、な、なんですってー!!」 太一「あきらめて部員になるのだな」 冬子「もきーーーーーーーーーーっ!!」 霧「いいからはやくかえってよー! 恥ずかしいんだから!」 新川「だってうまくやってんのかどうか心配じゃんかー……おっまえ頼りないしさ……」 霧「うまくやるから。かえって、へいきだから」 桜庭「ふ、賑やかだな、今日は」 ぽつりと、桜庭が呟く。 友貴「お、ビン抜けたんだ」 桜庭「石けん水の力でな」 先輩がお盆にコップをのせて、よたよたと戻ってきた。 見里「お茶がなくて、コップに水くんできましたー!」 太一「意味ねー!」 美希「あはははは」 笑ったり怒ったり。 ちょっとしたお祭り騒ぎ。 こういうのがいい。 思い出はこうあるべきだった。 太一「みんな見てくれ! 大変なんだ!」 視線が集まる。 太一「ストリーキングが出たぞー!!」 素早く服を脱いでいく。 友貴「おまえだよ!」 蹴飛ばされた。 冬子の尻に抱きつく。 冬子「きああああああああっ!?」 太一「ちょっと薄いな。骨盤が当たる。もっと肉感的になれよ」 冬子「きええええええええっ!!」 気合いだった。 太一「ぐふーっ!」 霧に抱きついた。 霧「男に触られたーーーーーーーっ!!」 太一「ぎゃふーっ!」 美希「わーい!!」 太一「ぐおーっ!?」 冬子「宮澄先輩もどうぞ」 見里「え、で、でも?」 冬子「地面に落ちたら負けですよ」 ボールか俺は。 見里「まあ大変」 見里「こ、こうですか?」 太一「せりゃー!!」 友貴「最後は特に気合い入ってるなー」 桜庭「あれは太一の特別サービスと見た」 美希「男っす!」 楽しかった。 どこまでも楽しかった。 良質の思い出。 決して忘れたくはない。 そう願った。 CROSS†CHANNEL 夜、日記を書いていると。 太一「ん?」 外から物音。 蝋燭を消す。 窓際に。 外を見る。 家の前、道路を誰かが歩いていた。 ……霧。 荷物を抱えている。 日記のネタに飢えていたのだろうか。 好奇心がもたげた。 階下に。 遠くに霧の背中が『見え』る。 追った。 やがて町外れまで行くと、霧は荷物をおろした。 俺は見つからないよう気配を殺し、近づく。 クロスボウ——— 断じて玩具ではなかった。 この国で手に入る、強力無比な武器だ。 連射こそできないが。 静音性に優れ、破壊力に富む。 霧は引き金を引いた。 枯れ木に矢が刺さった。 風切り音が耳に残る。 霧は新しい矢をつがえる。 コッキング装置で、装填を済ませる。 ぎこちない。 が、知っていた。 これは訓練だ。 戦うための。 では、誰と。 誰と……だろう……。 背筋につららがさしこまれた。 太一「……っ」 曜子「し」 動作が跳ね上がりかけた矢先、絶妙のタイミングで肩を押さえられた。 すとん、と。 膝から力が抜けた。 太一「……ょぅ……」 曜子「静かに」 深呼吸一つして、冷静さを取り戻す。 小声で話しかける。 太一「どうしてここに?」 曜子「太一と同じ」 霧の挙動に気づいたのか。 曜子「毎日やっているみたい」 太一「……アレはどこから手に入れたの?」 曜子「マニア」 太一「ああ、ありそう……」 金さえあれば比較的容易に購入できる。 霧はそれから、しばらく訓練を続けた。 曜子「……取ってほしい?」 唐突な言葉。 定期的な風切り音の合間、静寂に吸い取られる。 ただ耳の中には、いつまでも残った。 ぞっとするような意味をともなって。 曜子『太一……取ってほしい?』 曜子『取ってあげるわ』 太一「取るって……」 曜子「太一が望むなら」 太一「望まない」 曜子「でも……」 睨みつける。 太一「俺の言うことをきいてくれるなら、何もしないでくれ」 曜子「……わかったわ」 心なしか肩を落とす。 太一「曜子ちゃんだって、人間だろ……同じ、人間なんだ」 曜子「…………」 太一「少なくとも俺と一緒なら、半分は人間だろ」 曜子「私は」 曜子「私は太一が人だとは思ってないもの」 曜子「太一は太一。私にはそれで十分。そして私も私。二人で一人」 曜子「はんぶんこ」 太一「……婚約者だろ」 微笑む。 曜子「そう、婚約者」 たまの笑顔は童女のようにあどけないのに。 どうして——— 悲嘆が心を塗りつぶす前に、霧が動いた。 撃ち尽くした矢を回収する。 そして再び撃つ。 三巡して、霧は訓練を追えた。 曜子「あの腕ならよほど至近距離で狙われない限り、平気だと思う」 太一「そういう状況になってほしくないんだけど……」 不意に祠のことを思い出した。 太一「ねえ、曜子ちゃん、祠のこと知ってる?」 曜子「……知ってる」 太一「この世界が……」 曜子「情報不足」 ぴしゃりと、言葉を打ち切る。 曜子「早計するための知恵じゃない」 太一「でも」 曜子「仮に世界が繰り返されているとするなら、今論じる必要はないと思う」 太一「…………」 押し黙る。 彼女が言うのなら、そうなのだろう。 支倉曜子はいつだって的確だ。 霧が引き上げた。 もう追跡する必要はなかった。 平原に出て、的になっていた樹を調べる。 太一人形がそこにはあった。 太一「…………」 曜子「……太一」 太一「いいんだ」 太一「いいんだ……」 太一「……ん?」 自宅に戻ると、足下にダンボール箱が置いてある。 中身は……食い物だった。 太一「友貴か」 本当に一人一人に配送してるんだな。 生真面目なヤツ。 太一「……出来杉君だな、こりゃ」 それほどまでに本気だということだ。 本気の逃避。 友貴らしいといえば言える。 リンゴをかじった。ぬるかった。 CROSS†CHANNEL 冬子の姿はない。 今日もだ。 学校に来る理由もない。当然か。 少しばかり物足りない。 少しばかり自分の席に座ってみる。 少しばかり、物思いにふけってみる。 新川「実はな、俺は記憶ソーシツだ」 唐突に、ヤツは言った。 太一「主人公みたいだな」 新川「?」 太一「なんでもない。忘れてくれ」 新川は語った。 少年期の記憶がないこと。 先端恐怖症であること。 森の暗がりに病的な恐怖を感じること。 なにかがあったのだ。昔。 けど内容は知らないのだという。 霧の両親も教えてはくれなかったらしい。 そして新川豊に家族がいないこと。 全ては闇の中。 そしてついには、霧とともに群青送り。 太一「……むぐむぐ」 俺はピザを貪り食いながら聞いた。 デリバリーしたピザだった。 当時、俺は非常に裕福であり、昼食は出前を取っていた。 基本的に心の治療という名目もあってか、群青での校則はあってなきに等しい。 ピザを取るのを止めたら、情緒不安定になるかも知れないからだ。 治療という名目で人を隔離しているこの学校は、自意識さえあれば無法地帯だった。 ……孤島の牢獄めいて。 太一「うーむ、そうだったか。記憶ソーシツ。うーむ」 俺は熟考した。そして、 太一「OK!」 新川「そうか……まあそういうと思ったがな……」 太一「俺は記憶ソーシツの新川を肯定するぞ。けど記憶喪失でない新川はご免被る」 新川「…………」 そんな気怠い空間に、霧が来た。 霧「また二人でつるんでる」 太一「霧ちんだ」 霧「……霧ちんって呼ばないでください」 太一「だって霧ちんじゃん」 霧「霧です」 太一「じゃ霧」 霧「呼び捨てにしないでください!」 太一「どうしろと」 太一「なあ豊?」 新川「……………………」 寝ていた。 太一「すぐ寝るな、コイツ」 霧「……昔からそうなんです」 霧「後遺症みたいなものらしくて……」 太一「ああ、例の記憶喪失ってやつ」 霧「……豊に聞いたんですか」 太一「今さっき」 霧「そうですか……信頼されてるんですね」 太一「って?」 霧「前の学校で、友達なんていませんでしたから。兄にも私にも」 よくあることだった。 特に適応試験の結果は、よく漏れた。 霧「友達だった人にも、裏切られて……誰も信用できなくなって……」 霧「誰も傷つけてないのに、みんなから傷つけられて」 太一「そして牙を剥くこともある」 霧「攻撃されたら、身を守るのが当然じゃないですか」 太一「そういう考え方もある」 太一「けど身を守った猛獣は、撃ち殺されるのが世の常なんだよ」 霧「……人間じゃないですか」 低く、霧は吐いた。 義憤。 現代を生きるには、霧はまっすぐにすぎた。 太一「中にはね……本当に人じゃないのもいるんだ」 太一「たまにさ、周囲の人間のこと、どうでもいいって思っちゃうことってない?」 霧「…………」 太一「俺はたまにある。たまにね。けど……完全にそうなったらおしまいだ」 太一「頑張って生きないとな。少しでも奴らに尻尾を振って、あの普通の人とかいう連中に、媚びをうってでもさ……生きんと」 霧「それで変な行動を?」 太一「さあ……考えたこともないや」 太一「……君もそうなんだぞ」 霧「え……わたしも、ですか?」 太一「生存したかろうが」 霧「わたしは……」 霧「わたしは」 顔を伏せる。自分を抱く。 霧「世界が恐くてたまらない、です」 太一「どんなところが?」 霧「……悪意が」 霧「みんなの悪意が……」 霧「誰も……優しくない……優しさが少ない……」 震える。 そう。 彼女もまた、望んでここに来たわけでない。 ここに来るしかなかった。 国はそう定め給うた。 逆らうことは許されない。 霧「……人間なんて、なくなる時にはあっさりなくなるって思ってます……だって、世界にはほとんど何もないから……」 霧「きっと『何もない』方が多いんです。『なにかある』方は、ちょっとだけなんです!」 霧「いつ押し流されてしまうかもわからないって……思って」 太一「その……SFみたいな、人類滅亡とか?」 霧「そういうのとは違って……そういう理由があるのとは違って……」 霧「夢から覚めたみたいに」 霧「いがみあってばかりで、こわいだけなのに……」 霧「けどある日、突然すべてがなくなって……ちっぽけな世界で……もし自分ひとりが取り残されたらって考えると……」 霧「わたし……わたしは……」 太一「佐倉霧」 呼び戻す。 沈みかけていた表情にさっと色がさす。 霧「あ……すいません……」 太一「悪意も恐い、一人も恐い……か」 霧「……?」 太一「座ったら、ピザも食ってよし」 太一「食うブチ、一人寝たし」 新川「…………」 霧「……は」 ゆるゆる座る。ピザには手をつけない。 感情の揺り戻し。 少しぼんやりしていた。 太一「挙げ句の果てに流刑地に送られたっと」 霧「……流刑地なんですか、ここ」 太一「そうだよ」 太一「けど悪意はない。いじめも。見てみろよ」 周囲を示す。 昼時。 自力で食事を取れる者が、ぽつぽつと食事をしている。 集まりはなく、全員一人で食べている。 会話もない。 俺と新川が話していたくらいだ。 太一「みんな穏やかに過ごしている」 太一「ある意味、一人で生きる強さを持った連中だ」 太一「人と繋がる必要もなく、一人で完結している」 太一「完成された人類だ」 霧「そんなの……おかしいです」                               そご 太一「未熟なのに人と繋がると、齟齬は起きる」 太一「それもえてして、普通の人々の間で起こるじゃないか」 太一「だから人は、完璧になったら一人で事足りるべきだ」 霧「……」 太一「食わないの?」 霧「あ……人の手をつけたもの食べるの、無理なんです……」 太一「潔癖性なんだ」 霧「……男の人のは、特に……」 太一「男性恐怖症でもあるのか」 霧「あ、こっちのは、別に……ただなんとなくで……男の人って……不潔だから」 太一「むちゃくちゃ言うな、おまえ」 思春期の女の子が抱きがちな、単なる異性への意識か。 容易に敵意になるし、平時においては萎縮を招く。 霧「…………」(もじもじ) ……今のように。 ということは、裏を返せばHなことに興味しんしんってことだ。 わーい。 太一「いや、喜んでどうする……」 豊の未来妻を奪うわけにはいかない。 霧「あの、さっきの話ですけど……」 霧「悪意はないのかも知れないですけど……この学校は……なんだか『何もない』部分が広い気がして……話しかけても、誰も答えてくれないし」 太一「そりゃ別に無視してるわけじゃない。法則が違うんだよ」 霧「……ほうそく?」 疑問まじりに反復する様子が、年相応に幼く見える。 こっちが本当の霧だと悟った。 この人見知りをする、口べたでおどおどした少女が。 太一「チャンネルが違うというか……交差しないというか……」 うまく説明できない。 太一「霧ちんも俺も、ベースの精神状態はノーマルだからさ。ノーマルじゃないベースのやつとは規格が違うわけだ」 太一「相手の法則にのっとって接触すれば、会話は成立するさ」 霧「……どうやって……そんな法則を……」 太一「観察力があれば。そうだな……たとえば」 手近な席に座っている暗そうな眼鏡の女子のもとに。 実は彼女と俺は、交易をしているのだ。 手を叩く。 視線がこちらを向いた。 一切れのピザを眼前に。 少女「…………」 興味を示した。 つかもうとする。 ちょっと離れるとつかもうとするのをやめる。 半径30センチの距離。これが彼女の聖域だ。 少女「……………………」 思案し、少女は弁当箱を掲げる。俺に。 太一「OKー」 卵焼きをひとつもらった。 で、かわりにピザを進呈する。 少女「……っ」 はむはむと食べはじめる。 太一「とまあこのように」 霧「……今のは?」 太一「物々交換が基本なんだ。あのこ」 太一「あとは自分の世界だけでいい。だから半径30センチ外の出来事には、関心が薄いんだ」 太一「サヴァン症候群的な面もある。単純計算が異常にできる。あと数百年先のカレンダーの日にちと曜日をぴたりと即答する」 太一「数字の海を眺めてるんじゃないかな」 霧「……幸せなんですか、それであの人は?」 太一「当然」 太一「幸せの形が、人と違うだけさ」 霧「……そんなのいやです」 霧「悪意はないのかもしれないけれど、わたしはそんなのはいやです」 霧「だって……人がいるのに……一人一人が絶海の孤島みたいで……閉じてて……」 霧「いやなんです……」 太一「…………」 まるで霧は、 かまってください——— そう叫んでいるように見えた。 太一「それが君の傷か」 霧「……え?」 新川が呻く。 太一「お、お兄チャマが起きそう」 太一「豊のこと好きなの?」 霧「それは…………って、な、何言ってるんですかっ」 赤くなった。 霧「あっ、だからっ、違いますっ」 太一「わかりやすい」 霧「違いますってばっ」 太一「いいなあ豊」 霧「……ええ?」 豊が無言で起きた。 目をこする。 新川「……やべ、また落ちた、俺…………あれ、俺のピザは?」 太一「食べちゃった」 新川「なん、だと……?」 唖然とする。 太一「だって起きるとは思ってなかったから」 豊は低く呻いた。 が、それ以上文句を言う様子はなかった。 新川「……」 かわりに別のことに興味を引かれたようだ。 俺を見る。 赤面している霧を見る。 腕を組んで考える。 豊は再度霧を見あげた。 新川「OK、事情はわかった……で、縁談はまとまったのか?」 太一「明日式だ」 霧「しませんっ!!」 そんなことがあった。 太一「う……」 目が覚める。 机に突っ伏して寝ていたらしい。 夢を見ていた。 懐かしいはずの夢。 けど憂鬱な気分になってしまう。 結局人は、自分のために生きている。 人と触れあうことで生じる、様々な欲望の中で。 汗ばんだ体を冷やしに、屋上に向かう。 アンテナの場所。 みみ先輩はいない。 怪我したせいだろうか。 彼女の部活は、中断されてしまった。 アンテナの根本には、機材やら工具やらが置かれている。 ノートがある。 見てみた。 太一「……………………」 なるほど。 いろいろ苦労しながらやってたわけだ。 SOSねぇ。 アンテナを立ててSOS。これでバッチリ。 みみ先輩らしい、素敵な計画である。 みみ先輩一人だと……終わらない作業量に思える。 図面に赤線が引いてある。 『届かないよ〜(泣)』 ははあ。確かに。 仕方ない。 脚立を立てて、その上にのぼる。 太一「ここを……こうかな?」 仕上げてやった。 太一「これでよしと」 太一「で、次はと……」 図面に視線を落とす。 『わからないトコ(泣)』 『保留です(泣)』 『ここ間違い(泣)』 『???(泣)』 『間違えたカモ……あとで確認(泣)』 『ワイヤー切れた、代用できるものを探さないと……(泣)』 『(泣)』 『(泣)』 『(泣)』 泣き言だらけじゃねぇか。 太一「……みみ先輩……」 アンテナを見てみる。 放送局……か。 SOSの効果はともかく。 みんなで放送をするということが、妙に心を弾ませた。 あまりにも健全すぎるから。 健全さからは対角に位置する俺たちの、琴線に触れるのだ。 こうして。 俺は『部活』をはじめた。 誰もいない。 一人で弁当を広げた。 太一「ふう」 あいかわらず二人分の弁当だった。 やることもなく、再び屋上に。 霧がいた。 フェンスから外界を見渡している。 既視感が、俺の意識を過去昔へと連れ去った。 夏も終わりかけていた。 蝉たちも一際うるさかった。 叩きつけるような鳴き声。 最後の命を振り絞っていると知れる。 命の残滓に彩られる夏。 霧は屋上にいた。 一人だ。 泣いていた。 背後からでも、肩の震えを見ればわかる。 太一「霧……」 霧「……黒須……先輩?」 涙を隠すこともなく。 霧「豊……豊が……ここから落ちて……」 太一「ああ……」 知っていた。 知らない者はいなかった。 この街には。 世間一般では、学生が一人飛び降り自殺をすれば、それなりに話題になる。 保護者は学校を問いつめ、誰が悪いのか、白日のもとにさらそうとする。 学校も責任を回避しようとする。 群青ではそれがない。 世間の誰も問いつめてはこないし、学校も逃げない。 何人かの人間が責任を取った。 世間は群青の危険な少年少女たちのことなど、どうでも良かった。 悲しむ者は、わずか。 霧「誰も……誰も……悲しまない……わたしたちがどういう気持ちで……生きてきたのか……誰もっ」 珍しく興奮していた。 豊の死から、すでに一週間が経過していた。 霧の悲嘆は遅れてきていた。 太一「なあ霧……豊は、幸せだったのかな」 霧「……?」 太一「あいつはあいつなりに、幸せだったのかな?」 ありがちな問いかけ。 けど。 意味はまったく逆だった。 霧「……ずっと、つらい思いをしてきたんです」 太一「本当にずっとつらかった?」 太一「一瞬でも、幸せな時間はなかった?」 霧「それは……」 あったに違いない。 霧「……先輩と友達になってからは……笑うように……」 霧「けど全然取り戻してないっ」 語調が強まる。 霧「受けた苦しみを、ちっとも取り戻してないっ」 太一「じゃあ霧ちんは、豊の人生が取るに足らないものだったと思ってるわけか」 霧「そうじゃ……ないですけど……」 太一「……と言ってはみたものの、悲しいのは理屈じゃないものな」 俺も迷っていた。 霧の処遇に。 太一「泣けばいいさ」 空を見あげる。 視界を埋めた純白が、巨大な入道雲と理解できるまでの刹那。 太一「せめて夏が終わる前に」 蝉たちの最期とともに。 万感こもごも含んだ意味に、霧には聞こえたのだろう。 霧「……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」 目を伏せ、俺のシャツの裾を掴んで、声を張り上げた。 霧「ゆたにぃが……死んじゃった……死んで……」 嗚咽。 太一「…………」 ゆたにぃ。 大好きな、お兄ちゃんだったわけだ。 片足でも立派に生きて。 霧の両親——— 豊の葬式で見た二人の顔には、軽い安堵があった。 霧はそのことに気づいているのか。 おそらく、悟っているに違いなかった。 いろんなつらい目に遭っても、二人で支え合ってきたんだろう。 いわば半身だ。 霧は半分なのだ。 俺と同様に……。 ただ霧は、望んでそうなった。 今は強い感情が気力を剥奪している。 が、いずれ悲しみが薄れれば、あるべきはずのもう半分を求めるだろう。 豊と霧。 一心同体だった二人。 霧に罪はない。 けど俺は……俺の怪物は、身じろぎしてしまった。 太一「霧……」 背中に手をまわす。 激情が索敵を甘くして、霧は気づかない。 霧「ううう……うぁぁぁぁ……」 少しずつ、情緒は沈静化していく。 その頃には、俺はすっかり霧を抱きしめていた。 太一「霧……寂しい?」 霧「……?」 太一「寂しい、よな」 霧「……黒須先輩?」 太一「俺は虚しいんだ。とてもね」 見下ろせば小さな面差し。 深みをたたえた黒曜石がふたつ、表面を薄い塩水で濡らす。 太一「豊は幸せだったと思うよ。霧もいたし、イヤなことは忘れてたし」 太一「最期まで、幸せだったって、俺は思ってる」 顔を近づける。 霧「…………ぇ」 小さく狼狽を示す。 顔を交差するように重ねて。 唇を、盗みとる。 霧「…………っ!?」 四肢が暴れかける。 強く抱きしめた。 霧「……んぁ」 霧の息が詰まった。 フェンスに押しつけて、唇を吸い続ける。 霧「……ふぁ……ぃゃ……だめ……」 驚きが、霧の思考力を奪っていた。 ろくな抵抗さえない。 太一「寂しい?」 霧「……え?」 太一「寂しいんだろ?」 霧「……わか……らない……」 キスする。 二度目。 今度は歯茎の内側に、侵略していく。 同時に手を、スカートの中に。 霧「んっ……ん、んんんんっ!?」 突如として抵抗が強まる。 霧は俺を突き放した。 霧「や、やめてくださいっ!!」 太一「…………」 俺は薄笑いを浮かべていたんだと思う。きっと。 霧「あなたは……」 衝撃が、ゆっくりと嫌悪に覆われていく様を、俺は見ていた。 霧「っっ!!」 走り去る。 俺の脇を通り過ぎて。 軋む扉。締まる扉。 太一「……はは」 顔を手で覆う。 なるほど確かにこれはマズイ。 口元が酷薄そうに吊り上がっていた。 霧とは疎遠になった。 部活にもあまり顔を出さなくなった。 美希が強引に連れてくることはあったが、俺のことは避けた。 会話もなくなり、関係は途絶した。 そんなことが、あったんだ——— 太一「…………」 そして今。 霧の言ったとおり、世界はあっさりとサッパリした。 人間なんて簡単に『なくなる』んだと、俺も思い知った。 アダムとイブとは言わないけど、せめてもう少し完璧な人間が生き残れば良かったのにな。 この二人は、もともと永遠に生きる完全性を備えていたが、善悪の知識の木から実を食べてしまったが故に罰せられ、不完全なものとされたんだ。 それでも千年生きたと記録されている。 聖書を追って読むと、子孫は世代を重ねるごとに寿命を縮めていったことがわかる。 そして現代。 俺たちは、健全ささえ失いかけている。 こんな傷だらけの人間をとりわけて、神様はいったいどうする気なんだろう。 こんな……どす黒い感情を抱えた俺を。 どうせ世界は回っているのだと思った。 取り返しはきくのだと。 極論㈰。 皆殺しにしても、全部リセット。 記憶がなくなるオマケつき。 発展性のない世界にあるのは、可能性という娯楽だけ。 俺はその悦楽を、思い描いてしまった。 鎌首をもたげる欲望。 ゲームのはじまりを告げる。 太一「霧ちん、そこは新川豊が死んだ場所だよ」 霧は驚かなかった。 ゆるりと振り返る。 太一「?」 霧が驚かなかったことに、俺が少し驚く。 霧「……世界がこんなことになって……人もいなくなって……」 霧「悪意はなくなったかわりに……密度もなくなって……」 霧「それでも、あなたは変わらないんですね」 太一「…………」 あっけに取られてしまった。 口ぶりが、まるで好戦的だったのだ。 霧「……前から言おうと思っていました」 霧「先輩はどうして、生きてるんですか?」      くさび 心臓に楔が打ち込まれた。 『なあ、ひとつ質問なんだけど……どうして今すぐにでも死なないんだ?』 重なる。 過去と現在。 交差して。 まるで、昔投げつけた刃を、今になって不意に投げ返されたような。 アイロニカルな構図。 霧「自分に生きる資格があると思っているんですか?」 太一「…………」 霧「あなたは、黒い」 的確な比喩だと思った。 霧「ヒトじゃない。ヒトに似たものでしかない。ヒトに擬態してる。虫みたいに」 霧「擬態して、ヒトに化けて、ヒトを襲う」 霧「あなたは人を傷つけるものです。決して相容れない」 霧「どうしてあなたの適応係数が80を越えているのか、昔は不思議でした。けどそれはまったくおかしなことじゃない。あなたの中のヒトの部分は、文字通り二割ほどしかない」 饒舌に語る。 今までたくわえられ佐倉霧という様式を覆す、鮮烈なイメージを構築していく。 言葉のナイフが、俺の精神を刺そうとしていた。 今までは鈍い刃物しか持ち得なかった——— 佐倉霧の切り札となって! 霧「怪物です」 霧「あなたの欺瞞は、怪物の分際で怪物に徹さないところです」 霧「人と怪物との間に共感が芽生えて、仲良く幸せに暮らせると思っているんですか? あなたが人並みの幸せを手に出来ると?」 霧「ありえない」 霧「世界にわずかしかない優しさは、決してあなたのために取り分けられない。いえ、取り分けられてはならないんです」 霧「体を食い破って出てくる寄生虫に、愛を抱く人がいないのと一緒です。もしいたとしてもそれは狂人でしょう」 霧「あなたはいつも自分のために犠牲になってくれる獲物を捜してる。わたしにはわかります。今まではそれは抑えられていた。けど世界がこんなことになって、ヒトの数が少なくなって、あなたの抑えはきかなくなってきてる」 霧「擬態をする必要がなくなったからです」 霧「傷つけて楽しむため、あなたの目はいつも私たちに注がれている。それもひと思いにではなく、ゆっくりと時間をかけて嬲り尽くそうとしている」 霧「ヒトでもない、怪物でもない」 霧「では何者なんですか? 何者でもないあなたこそ、世界から消えるべきだった。わたしはそう思います」 霧「大半が悪意に満ちた人類だって、あなた一人の命よりはずっと価値があった。わたしにとってさえ、そうです」 霧「ふたつ、忠告します」 霧「まずあなたが他者との触れあいの中で本当の人間になれるのだと思っているとしたら、それは間違いです。あり得ません。人間を冒涜する考えです。先輩ほど完璧なバケモノは見たことないですから」 霧「あなたは掛け値なしの精神異常者。狂人の中の狂人」 霧「……狂える者たちの頂点です」 霧「そしてもう一つ。わたしたちに手を出そうとは思わないことです」 霧「もし先輩が生贄を求めてわたしたちに近づくことがあれば……」 最後のひとつきを、霧は繰り出す。 霧「射殺します」 太一「……………………」 霧「……美希は絶対に、あなたには渡さない」 霧「壊させない!」 つかつかと靴音を立てて、脇を通り過ぎる。 軋む扉。締まる扉。 俺は一人になった。 太一「…………怪物……」 怪物。 怪物。 怪物。 言葉を反芻して、噛みしめる。 苦み。 これは脳の味だ。 脳がある種の神経伝達物質を分泌し、その味が味覚を司る神経に直接乗って錯覚を起こす。 怪物。 いみじくも、自分を表するときの言葉と同じ。 太一「いてて」 ほら、傷む。 乾いた心がひりつく。 ささった無数の切片が、苦痛を生み続ける。 太一「まったく……ズケズケと……」 膝立ちになる。 立ちくらみがした。 太一「あーいて……いてて。いたいけど」 どれも、致命傷ではない。 霧のナイフは、俺の心を効果的に貫いてはいない。 表面に細かな傷をつけただけだ。 痛みはあるが。 児戯に属した。 かつて俺が受けてきた『攻撃』は、こんなものではない。 だが久々に攻撃を受けた気がする。 適度な攻撃は、適度な緊張感を呼ぶ。 酩酊に近い状態か。 その場に横になる。 太一「……射殺せるなら……そうしてくれ……」 太一「いっそ楽にしてくれよ〜っと♪」 悪くない、気分だった。 CROSS†CHANNEL 意識浮上。 肉体感覚の潜望鏡をあげる。 腹具合から、三時間ってとこか。 眠っていたのは。 フリーズしてしまったようだ。 ……キャパが少なくてどうも。 目を開けた。 太一「…………美希?」 美希「はい」 にっこりと。 美希「美希です」 太一「俺……」 美希「あ、寝ててください」 太一「……膝枕のままでいいの?」 美希「えっちなことしないでくれるなら」 太一「したら?」 美希「セクハラの度合いにもよりますが」 美希「スカート潜行とかしたら、射殺です」 太一「……シマセン」 美希「じゃあどうぞ、膝をお楽しみ下さい〜」 太一「うむ」 ほんのりあたたかくて、柔らかい。 いい香りがする。 制服の感触と、その下にある瑞々しい太ももの弾力。 至福。 太一「また寝そう」 美希「寝てもいいですよ」 太一「そしたら楽しめなくなる」 美希「ふふふ」 美希「……びっくりしましたよ。倒れてたから」 太一「寝てた」 美希「またそんなトンデモ日常を……」 美希「でも、そういう時の先輩が、一番いいですね」 太一「……そお?」 美希「面白おかしく、毎日がお祭り騒ぎみたいで」 太一「…………」 美希「ちょっとばかり、寂しくなりすぎですよね」 太一「まったくだ」 太一「いくらなんでも60億から8人はないだろう」 美希「種の存続に影響ありですね」 太一「いや、それはないのだ」 美希「なぜです、なぜなのです?」 太一「ハハハ、わかっているくせに」 尻に手を伸ばす。 美希「ぷす」 刺された。 太一「い、いてえっ! 何だ?」 美希「ナイフです」 コンバットナイフだった。 太一「あぶねー! なんでそんなもの持ってるです!」 美希「霧ちんが持ってろって」 美希「あ、今さしたのはナイフじゃなくて小指の爪です。ふぇいくふぇいく〜」 美希「血は出てないのでご安心」 太一「あ、そう……」 ほっとした。 血はなるべく見たくない。 スイッチが変わりやすくなっていかん。 太一「霧ちん、専守防衛なのに軍備拡張しすぎなんじゃないかなあ?」 美希「ミキもそう思うデス」 太一「FLOWER’Sは平和の象徴なのですよ」 位置はそのまでうつぶせになる。 ミキの下腹部側に顔をうずめる。 衣服数枚隔てて、キューティーデルタゾーンだぞ。 美希「あっ、あっ!」 太一「このくらいはグレーゾーンでしょ」 美希「そんなことするとー、こっちもそれなりの対外政策を実施しますよ」 太一「俺は美しきデルタに魅入られし愛貴族に過ぎないのだよ」 美希「詭弁〈きべん〉を弄されるか。ならば」 棒を取り出す。 美希「耳かき」 いいじゃん。 ホームラン級のシチュだぞ。 太一「頼む。いや、イヤと言ってもやってくれ!」 美希「……いいんですか?」 太一「俺の耳ヴァージンを奪ってくれ」 美希「……いやぁんなイメェジを」 太一「ドキドキしますな」 美希「ま、そんなにお望みとあらば」 太一「優しくしてね……」 美希「善処します」 美希「結果はともなわないと思いますけど」 ……え。 耳に棒が突っ込まれた。 ごりっ 太一「!!!!」 美希「いきなり大物発見」 ごりゅっ、がりっ、ごりりっ 太一「オーノーッッッ!?」 太一「ペイン! ペイン!」 しかし美希はやめなかった。 美希「ふふふふふふ、楽しい〜、久しぶり〜」 耳かきに餓えし者! 美希「そーれそれそれ」 ごるっ、がりりっ、ごっごっ、ざりざりざりざりーーっ 太一「ぎえぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっっ」 痛いなんてもんじゃない。 これは耳拷問、無意味に略せばみみごーではないか。 ごりゅっ、がりっ、ぞりいっ 太一「ミミガー!!」 沖縄料理風の悲鳴を発し、俺は実をよじる。 美希「あ、動いたら危ないっす」 美希は正座を崩した。 一瞬パンツが見えた。 多幸感が満ちるのも束の間。 太一「へ?」 首に脚が巻きつく。 太ももが顔を挟んだ。 太一「なにをっ!?」 この体勢は……。 俺は宇宙(コスモ)を感じていた。 少女の太ももに包まれて。 美希「これでよし。にしし」 耳に拷問器具(耳かき)が突っ込まれた。 ざりゅっ 太一「やおうっ!?」 しかし頭は固定されている。 気持ちいいが逃げられない。逃げたくないが逃げたい。 天国と地獄。 同時!! 太一「ふやゆうぉひのまうえゃをゃゅょゑゃえゆぇゃやうぺよわわ!?」 苦痛と悦楽。 交互に舞い降りて、俺を翻弄。 美希「あ、ボスクラス発見!」 美希「これより攻撃にうつります」 美希「行けー、行けー、スクランブルだー、耳かきだ〜♪」 歌い出す。 太一「#$%&%ッッッ??」 太一「ゴーーーーーヤーーーーーーーーーっ!!!!」 沖縄料理風の悲鳴が、再度口からもれた。 美希「くっ、手強い……よーし、反対側から」 太一「ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」 その瞬間、苦痛が快楽を越えた。 太一「そ、それは耳垢じゃなくて脳ではないのかだーーーーーーーーーーっ!?」 そんなわけない。 だが、こんなにもかたく張りついているのだから、大切な器官に違いない。 おお美希よ、どうかその子をはがさないでおくれ。 太一「ま、まってくれ! それはきっと人体に必要な器官なんだ! 人間の身体は、無意味に思えるものにも意味があるものなのだ! たとえばキミも持ってるキュートなお豆ちゃんだってちゃんと性的な意味が———」 美希「ドリル攻撃〜、すぱいらる〜♪」 太一「イヤーーーーーーッッッ!!」 耳を意味する悲鳴を(略)。 俺の耳脳が!! めりめりと音を立ててはがれていく!! 太一「ロボトミー反対っ!!」 そして。 べりいっ 太一「ッッッッッ!!!!」 俺はオルガスムスを迎えた誘惑熟女のように、びくっと痙攣した。 頭が固定されているので、四肢がミミズのように波打つ。 美希「やった、取れたぁ……うわー、でかー、すごー、勝ったぁ」 死んだぁ……。 だがこれで解放される。 太一「ひ、膝枕と太ももも堪能したし、こ、このあたりで」 しかし美希は言った。 美希「さ。じゃあ反対側の耳も制圧しますか」 太一「……………………え?」 美希「さーて、さて、こっちのエリアにはどんな強敵がいますでしょうか」 太ももがよじれる。 幸せ! 幸せの隙を突かれて、ひっくり返された。 耳かき棒が突っ込まれる。 太一「ぎにゃーーーーーーーーーー!?」 それなりの対外政策……恐るべし! で。 太一「……ふぉぉぉぉ……」 処女貫通悶絶二穴責めから解放されたのは、十分後だった。 人生で最も長い十分だったと言えよう。 美希「まんぞくまんぞく♪」 美希「見ます? 戦果?」 太一「いいっす……」 太一「おお、よく聞こえる」 美希「すごく詰まってましたよ」 太一「別世界のようだ」 美希「わたしの耳かきで喜んでくれたのは、せんぱいがはじめてです」 だろうな……。 いや、決して喜んではいないが。 太一「むしろ俺の強力な煩悩力があったおかげで、耐えられたと言うべきか」 美希「ふお?」 太一「ふぉふぉふぉ」 笑い飛ばした。 太一「ところで君は霧ちんを捜しているのではないかな?」 美希「ああ、ご存じですか? なんか見つからなくて」 太一「三時間前までここにいたんだけど」 美希「なんか今日はなかなか遭遇できませんで」 太一「ふーん」 情緒不安定だからかな。 太一「一人になりたかったのかも」 そういえば豊が死んだ日か。今日は。 ああ、そうか……それで。 太一「……ま、今日はそっとしておいてあげたら?」 美希「はあ」 美希「……なにか言われましたか?」 美希「というか霧っちになにかエロいことしましたね?」 太一「してんよ」 方言で否定する。 美希「本当ですかぁ?」 しようとしたことは確かだが。 太一「俺は愛紳士だぞ」 美希「しようとしたけど、きついこと言われて引き下がった」 太一「…………」 美希「なるほど」 弟子に見抜かれる師匠の図。 太一「まあ……俺がクレイジーだということを、言葉巧みに説明された」 美希「それは……」 太一「まあ事実だしねぇ」 美希「…………」 正直、ちょっと落ち込んだ。 美希「先輩は……優しいモードの時は、好きですよ?」 太一「誉め殺しのつもりか。百戦錬磨のこの俺、たやすくはだまされないぞ!」 美希「めっちゃニヤけてるんですけど」 ああ、俺の正直者! 太一「じゃあ俺と結婚するか!!」 美希「なぜ怒られながら求婚されるのだろう……」 美希「んー、まー、いいですよ」 太一「え、マジ?」 美希「霧ちんがいいって言ったら」 太一「チョムズー!」 太一「でも一応、今の一筆したためてくれる?」 美希「……そういうところがダメなんですってば」 帰り道。 七香「へーい」 そばに七香がいた。 忽然と立ち現れたような……。 太一「あ、七香……」 七香「お元気ー?」 太一「そんなことより、あの祠って———」 抱きしめられた。 太一「うぐっ?」 七香「楽しいって、言えるなら、いいじゃん」/* 太一「いや、言ってないし」 つうか会話に脈絡ないんですけど。 なんなんだこの唐突感動イベントは……。 しかし、それはそれとして。 あいまいな胸の柔らかさ。 少女の香り。 不思議と、猥雑なものは感じない。 抱かれた時の感覚が、曜子ちゃんとは違った。 七香「その言葉は、嬉しいんだ。すごく」/* 太一「なにも言ってないが……」 七香「強くならないと生きる資格がないわけじゃないから」/* 太一「聞いちゃいねぇ」 七香「弱いままでも、いいんだよ」/* 太一「聞けよ!」 わけがわからなかった。 太一「胸の感触はすごくよかった」 七香「……正直すぎる」 太一「ただわけはわからなかった」 七香「ごめん、間違えたよ」 太一「なにと?」 七香は頭をかいた。 七香「別のと」 太一「理解できるように説明して」 七香「キミってアンテナ設営の方、着手したみたいだけど、進捗はどう?」 太一「あのな」 七香「んい?」 太一「わかるように話そう。まず……まずだ」 七香「まず?」 太一「そうだな、いろいろあるんだが」 七香「じゃあ一個だけ質問に答えてあげる。どんなことでも答えるよ?」 太一「パ、パンツの色はっ?」 七香「今日は白。でもちょっとかわいいの。ブラとおそろいのやつなんだ」 太一「純白かぁ」 少女の下着に思いを馳せた。 七香「じゃ質問はこれで打ち切ります」 太一「うおー、しまったー、世界の謎がー!」 反射的に質問してしまったぁ! 太一「俺は馬鹿だぁ!」 七香「そしてエロい」 太一「……取り消しだめ?」 七香「ダメー」 腕でバッテンを作る七香。 七香「次の機会だね」 太一「次って、俺もうこの会話忘れちゃってんじゃん」 七香「ほう。気づかれましたか」 太一「気づくさ。けど気づいただけで、どうしてこんなことになったとか、人類どうなったとか、わかんないことだらけだ」 七香「どうしてこうなったか、なんてあたしにもわからんよ」 太一「……そ、そうなのでちゅか?」 小首を傾けて、可愛らしく問いかける。 七香「そうなのでちゅよ」 小首を傾けて、可愛らしく返された。 七香「まあ……こうなったとしか言えない」 七香「理由を考えようにも、ぜーんぜんわかりまっせーん」 太一「えー」 七香「花も恥じらう女学生に何を期待しておるのかね」 太一「だいたいさあ、おかしいんだよ!」 七香「む、何が?」 太一「普通、キミみたいな役割はもっと大人しい電波っぽい娘がやるものだろ!」 七香「……はあ?」 太一「キミは勝ち気な幼なじみっぽいんだから、造形にふさわしく物語からの要請事項に従って俺の隣にでも住んで毎朝起こしに来いよ!」 指を突きつけた。 七香「……アホかおまいは」 太一「とんだミスキャストだ!」 太一「ただ配置を変えれば特別なことをしてるとでも思ったか、低脳短絡が」 太一「そーいうのを表層的な思考と言うんだ」 太一「変わったことがしたければ、根底からやってみろ。今まで誰もしたことがないようなやつをだ!」 七香「その言葉全部返す」 太一「俺は表層的なアンチテーゼにばかり目を奪われた低脳短絡ですーっ!!」 泣き伏した。 七香「泣くな泣くな、若者」 太一「……ま、こうなったら次の機会に同じ質問をしてくれることを祈るのみだな」 七香「コレがまた意外と違うんだなぁ」 太一「え、そうなの?」 七香「他の人たちは日曜夜の時点でもう気持ちが決まってるから、毎回似たような行動取るんだけどさ」 七香「太一は毎回けっこう違う」 七香「……ことを重大に受け止めてないというか」 太一「うーん」 あるかも。 俺自身のことを考えると、他人は少ない方がいい。 だから今の状況は、そう悪くないと思ってる。 まったく不安がないといえば嘘になるが……。 太一「わがらんなぁ」 七香「そ」 とりあえず今の会話。 自転車でウイリーを試みている七香を見やる。 この人……記憶リセットかかってないってこと。 太一「あのさ……」 七香「質問は禁止」 太一「うっ」 七香「言ったことは守ろう」 七香「別に隠しているわけではないんだけど……ね」 七香「……ちょっと、恐いんだ」 太一「こわい?」 七香「全部教えることが、こわい」 七香「太一が追いつめられるような気がして」 快活だった表情が、危惧を形作る。 太一「……そう」 まあ約束は約束だ。 七香「……」 太一「……」 湿っぽくなっちゃいました。 和ませることにした。 太一「あの……質問じゃないんだけど、さっきの下着の件さぁ」 七香「ん、なに?」 太一「ブラはフロントホックをつけて欲しいんですけど」 七香は訝しげに眉をよじった。 七香「フロントホックって……この花も恥じらう女学生である七香さんに?」 太一「そうだ」 七香「……理由は?」 太一「こう、女の子と初夜った時にさ、ブラを外すじゃないですか」 ※初夜る=太一語。初Hのこと。 太一「フロントホックであれば、こう谷間に差し入れた指で小粋にフィンガースナップを奏でつつホックを外したその瞬間、いましめから解放されたたわわな母なる双丘がたわわんと」 太一「……」 太一「たわわなのがたわわん、と———」 七香「繰り返すな」 七香「自分で思っているほど、たいしたギャグじゃない」 太一「つ……つまりその、揺れる様を鑑賞することかできるから、です!」 七香「却下」 そんな馬鹿なことを話していると。 じきに我が家。 太一「……よってく?」 七香「ううん、帰る」 ふと思う。 どこに帰っているんだろう、七香は。 太一「じゃあ、また」 七香「太一!」 呼ばれて。 頭だけ巡らせて、背後を視野におさめた。 七香は坂の上にいた。 ひどく遠い。 瞬時に移動したような。 七香「たーいちっ」 離れているにもかかわらず、声は冴え冴えと耳に届いた。 太一「え、あ、なに?」 狼狽えてしまう。 七香は間違いなく——— 自転車の脇に立ち、片手を高々とあげる。空を支えて、笑顔。 七香「また来週」 手を振る。 太一「あ、うん……」 俺も振り返した。 太一「また、来週」 七香は自転車に乗る。 走り出すと、少女の姿は坂の窪みを滑り降りて見えなくなる。 いくら待っても、向こう側の斜面をよじのぼる姿を見ることはできなかった——— 夜自室。 太一「さてと」 蝋燭に火を。 日記を開く。 今日起きたことを記していく。 黙々と。 可能な限り克明に。 太一「?」 咄嗟に蝋燭を消す。 今度は外に、軽い足音。 窓から顔を出す。 ……霧だ。 無人の街を足蹴にしていく。 いずれにしても、やることは昨日と同じだろう。 丑の刻参りさながら、太一人形は哀れ憎悪の対象に。 見ても虚しいだけだろう。 太一「……っ」 前触れなく、背筋が冷え切った。 ぞわぞわと、脊髄を撫で上げられる感覚。 忍び寄る恐怖。 だがそれも一瞬。 嘘のように、悪寒は霧消してしまった。 部屋の生ぬるさが戻り、じんわりと身を包む。 今の……は。  ・霧を追う  ・追わない 追いかけよう。 嫌な予感がする。 とても嫌な予感だ。 こっちだな。 さっきの……あの気配。 知っている。 俺はアレを知っている。 とと……自転車発見。 鍵はかかってない。 拝借。 昨日の場所に——— 草むらに出る。 霧は……いない。 ここに来たのではなかったのか。 昨日、霧が立っていた辺りを探ってみる。 荷物を発見。来ている。 移動したか。 太一「……」 深呼吸する。 目を閉じて、ぐっと目蓋で眼球を圧迫する。 水晶体の奥で、スイッチが切り替わったようなイメージが湧く。 なんてことはない。 明度が急激に変化した際、目がゆっくりとオートでやることを、意図的に加速しているだけだ。 開く。 夜が明るくなった。 草木の微々たる動きが、クリアに視界に表示されている。 猫の目——— 感覚が鋭敏になっていた。 太一「イヤだな……まったく」 自分が別の者になりそうな感覚でもある。 さて。 雑木林の奥。 そこからかすかな気配を感じた。 霧「……ひゃっ」 悲鳴が聞こえた。 太一「!」 走る。 視界を埋めた光景は。 戦慄と記憶を、同時に呼び覚ました。 くそっ! 曜子ちゃんの目、本気だ。 太一「やめろ!」 曜子「……太一」 驚く様子はなかった。 たぶん、俺の接近に気づいていたのだろう。 霧「……っ」 隙と見て霧が動く。 だが曜子ちゃんは視線を外していたりはしない。 手首を返して、ぶら下げたベルトを回転させる。 一回転。 握られていた両端の片方だけをはなすと、挟まれていた石つぶてが遠心力をまとってリリースされた。 霧「っっ!」 どうすることもできないタイミングだった。 行動の起こり、意識が向いた瞬間を突かれると、人は瞬時に対処できない。 石は霧のふくらはぎをしたたかに打った。 霧「ぐっ!」 すとんとうずくまる霧。 足を抱えて、歯を食いしばる。激痛が走っているはずだ。 背筋が冷えた。 これは投石だ。 古くは羊飼いたちが、羊の番に用いた技術。 霧の手にするクロスボウに対して、あまりにも原始的な武装。 いや、武装でさえない。 ないのだが……その威力、絶大。 紐に挟んだ石を振り回して投げつける。 それだけのことだ。 圧搾空気も火薬もガスも使わない推進力は、紐の長さと回転数でしかない。 空気摩擦さえ考慮された銃弾。 微細な数字の極地にある砲身。 悪条件下で長時間使用し続けるための信頼性。 人を殺すため続けられた研鑽。 その末にある銃器には、もちろん及ぶものではない。 だけど彼女のソレは……違った。 生まれながらにして祝福を受けた遺伝子に導かれた、見た目はいたいけな少女に過ぎない彼女の内部筋肉は、成人男子さえ凌駕する。 単純な腕力ではない。 俊敏さ、バネ、機動力。 そういった面で、女であることをまるでハンデとしない。 いつだって支倉曜子は素早く無音で動く。 会得の難しい投石を、手足の延長線上として使いこなす。 霧が持つクロスボウに、矢はセットされていない。 ……反撃し、外したのだろう。 これも恐ろしい武器のはず。 だか今、霧にとって楯のかわりにもならない。 矢をセットする暇さえ与えられず、石つぶてによって追い立てられた。 いや。 よく生き延びた。 曜子ちゃんの最初の一撃からは無警戒だったはずなのに、よく命を守り通したと。 曜子「…………」 二つ目の石を、ベルトに挟む。 手首のバネをきかせて、残像の円盤を作る。瞬時。 霧「ちょ……っと……」 霧の顔が青ざめる。 霧「ど、どうして……あなたが……?」 曜子「太一を、殺そうとしたから」 霧「!?」 曜子「太一を殺す練習をしていたから」 霧「……だ、だから……わたしを殺すんですか……?」 曜子「……」 もう会話には応じない。 ああ、あれは『取る』目だ。 曜子『なにがこわいの? こわいの、取ってあげようか?』 俺のいやなものを全て『取って』くれた。彼女は。いつも。 この世からなくしてしまった。 献身的どころの話じゃない。 ほとんど利己的なまでの、好意。 霧「ああ……」 回転数が増す。 鋭い風切音。                                   いすく 眼前で膨れあがる破壊力、霧は恐怖に射竦められる。 死の確定。 それが霧には信じられない。 回転力は、もう十分な運動エネルギーを石に内在させていた。 本来彼女の技量なら、一回転からリリースできる。 威力は若干落ちる。 おかげで霧の足も、深刻な傷を受けずに済んだ。 だが頭部に当てれば、時には死に至る。 確実に仕留めるつもりなのか。 回転数は高く鋭く保持されて。 今度は痛いでは済まないように。 霧「や、やめてぇ……」 クロスボウを顔の前に構えて、すすり泣いた。 これが霧の限界か。 太一「そこまでだよ」 霧の前に立つ。 霧「え……?」 回転が落ちた。 曜子「それは、生かしておくと太一に危害を加える」 太一「いいじゃないか、別に」 太一「どうせ、リセットなんだ」 曜子「…………」 太一「好きにさせよう」 曜子「……だめ」 太一「曜子ちゃん」 強く名を呼ぶ。 けど引き下がる様子はない。 曜子「取るの」 太一「取らなくていい」 曜子「どいて」 太一「どかないよーだ」 背後で、霧が息を詰めて見守っている。 命が助かった安堵と、俺に仲裁されたことへの違和。 曜子「でも……」 迷いがさす。 太一「俺を理由にして、人殺しなんてしてもらいたくないね」 太一「殺したいなら自分の理由でやってくれ」 彼女は怯む。 曜子「…………だって、太一のために……私は……」 俺のため。 俺の名前を出して霧を殺す。 そのことが、結果として俺を傷つけるとも考えず。 太一「……いつだってそうだ。自分の気持ちだけを押しつけて」 太一「迷惑なときだって———」 曜子ちゃんが手首をひねった。 太一「!!」 横から首を出して会話をうかがっていた霧。 その顔面の前にてのひらを置く。 次の瞬間、激痛とともに石がおさまった。 霧「きゃっ!?」 太一「……痛ぅ」 曜子ちゃんが青ざめる。 曜子「あ……ごめん……許して……」 太一「裏切ったな」 曜子「……え……あの……だから……」 太一「会話中に俺の隙を突こうとしたな」 不快だった。 こればかりは、本気で。 太一「……またか」 びくっと、彼女の肩が震えた。 太一「大切だと言う。愛してると言う。好意を押しつける」 太一「……なのに、ここぞという時に裏切る」 太一「またか」 曜子「違う、それはつまり……太一の身の安全が……」 しどろもどろ。 太一「その話はもういい!」 一喝された幼女の如く、すくみあがった。 曜子「……ご、ごめんなさい……」 消え入りそうな声。 太一「とにかく霧は殺さないでくれ」 曜子「…………」 曜子「……でも、太一を殺させるわけにはいかない」 曜子「それだけは、絶対に認められないよ」 太一「……むざむざ殺されないよ」 太一「霧と俺とじゃ、デキが違いすぎる」 曜子「けど……太一はたまに……」 太一「たまに?」 曜子「死への抵抗感を、忘れるから」 太一「ま、こんな状況だとね」 確かに、そういう面が俺にはある。 自慢じゃないが情緒は不安定だ。 太一「じゃあ約束する。今週については、死なないようにする」 太一「全力で身を守る。そのかわり、君も手を引け」 曜子「……………………」 太一「納得できないなら、縁切りすることになるよ?」 曜子「いやだ……それは、いやだ……」 即答だった。 曜子「わかった……引く」 曜子「でも、監視はするから」 太一「ご自由に」 曜子「佐倉霧の武器を渡して」 太一「だとさ。出せ」 霧「え……?」 太一「クロスボウと、ナイフかなにか持ってるだろ」 太一「出すんだ、そうじゃないと殺されちゃうぞ」 霧「…………」 無言で、霧はそれを前方に放り投げた。 曜子ちゃんが拾う。 曜子「武装は禁止。もし武器を保有したら敵意があると見なすから」 霧「…………」 霧は背中から出てこない。 太一「あとさ……来週からも、ちゃんと穏便に頼むよ」 曜子「うー」 不本意そうだった。 太一「お願いだから」 曜子「……う、うん、わかった」 ……ちょろい。 そして彼女は、闇に身を沈めていく。 気配がすっと消える。 太一「ほっ」 霧「……」 緊張の段階が、一つ下がる。 だがまだ0ではない。 太一「……………………」 背後、緊張の発生源がまだオーラを放出し続けている。 ゆっくりと怒りに転化していくそれを意識しつつ、 太一「……怪我は?」 霧「どうして」 俺に助けられたことへの戸惑いや怒り。 感情がもつれて、怒鳴りつけたいのを必死で抑えている。 そんなくぐもった声だった。 霧「どうして……助けたんです……」 太一「どうしてって……言われてもなぁ」 太一「助けたかったからそうした、じゃダメかな」 霧「ふざけないでください……」 太一「……ふざけてはないけど」 太一「ま、そうだよな。納得はいかんわな」 太一「嫌っていた相手に助けられるというのは」 霧「……」 太一「本気で俺のこと、殺す気だったの?」 霧「…………」 太一「まいったな、どーも」 霧「あなたは危険すぎます」 太一「危険?」 霧「自分が楽しむために人を弄ぶあなたは」 霧「こんな状況で、何も変わらないあなたはっ」 突如として、声を荒げかける。 すぐにトーンを落とす。 霧「……面白半分で、人を殺します」 空気が澱む。 憎悪が混入しているのだ。 霧の吐き出す憎しみを。 太一「ほんと、よく見てるよな」 嘆息してしまう。 霧「……?」 太一「君は人を見る目だけはある」 霧「なにを……?」 太一「俺が一番危険だと思ったんだろ?」 霧「……そうです……けど、危険なのはあなただけじゃなかった」 太一「曜子ちゃんか」 霧「……何もしてないのに……殺そうと……」 霧「あ、あなたたちは同類です……だから一緒で」 同類ではない。 否定したかったが、霧には理解さえできないことだ。 黙っていると、 霧「なぜわたしを助けたんです?」 再度問いかけて来た。 霧「見殺しにすればよかった」 霧「わたしがあなたのことを敵視していたのは……知ってるはずなのに……」 霧「わたしを助けても何の得にもならない」 太一「いやいや、漫画とかだとこうやって仲間を増やしていくんですよ」 怒気が膨張した。 霧「わたしはあなたの仲間になんかなりませんっ!」 感情的になったら負け。 そういうルールを自分に課していたらしい霧が、自ら怒声を発した。 太一「俺のピンチに……」 霧「駆けつけません!」 太一「うむ、いい返しだ」 霧「う……」 唇を噛んだ。 太一「助けた理由、思いついた」 霧「思いついたからって……」 構わず言う。 太一「霧が死んだら、美希が悲しむ」 霧「…………」 霧の泣き所だ。 太一「ってことで、そこいらにしておこうか」 霧「ばかにして……いつも」 太一「これが俺のアイデンティティなんだよ。他の接し方はない」 太一「でだ、霧ちん」 とりあえず、だ。 太一「この怪我、ちょっと手当してくれないかな」 霧「どうしてわたしがそんなことを」 太一「血が出てるだろ?」 さっきから、指先をしたたる血を意識していた。 太一「俺は血が苦手なの」 太一「それにこの怪我、君を助けてできたものだし」 霧「だって、それは黒須先輩が勝手に……」 太一「命を助けられたんだから手当てくらいしてくれ」 キッパリと。 霧「……わかりました」 素直。 霧「借りは作りたくないですから」 太一「さいで」 霧「けど……手当するようなものなんて……」 ハンカチを取り出して、傷口を拭く。 太一「いてて、それはちょっと痛いぞ」 霧「あ……すいません……」 反射的にあやまる霧。 霧「でも……他に」 太一「う、いてて、ジンジンする、出血多量で死にそうだ」 霧「え、えっと……」 太一「優しく癒してくれ」 霧「あ……っと……???」 逡巡。 太一「こんなとき美希ちんだったら、ぺろぺろと舐めて癒してくれるのに」 霧「なめ……っ?」 太一「傷口がいたむ……いたた、こりゃきついな」 霧「こ……こんなこと……したくないのに……」 太一「はやく頼む」 霧「わかり、ました」 霧「あなたに借りは作りたくないですから」 おずおずと、舌先が傷口に触れた。 霧「ん……む……」 熱い。 それにねっとりとしている。 ローションでも塗りたくられているかのようだ。 かすかな苦痛があるが、それがいい。 霧「れる……んっ……ちゅ、れ……あむ……んぅ」 優しく傷口をなぞる。 てのひらから、じんわりと甘い痺れが走る。 肩から脊髄に入り、背骨をくだって尾てい骨まで伝わる。 下腹部が熱っぽくなる。 太一「いいよ、霧」 霧「んるっ……んん、ん、くちゅ、んふ……はぁぁ」 時折、舌を離して熱いため息をつく。 太一「指先の方も、キレイにして」 霧「ん……んんん……んふぅ、れろ……ん、ん、ん……は、んふぁ」 ねろねろと舌が蛇行し、てのひらをおりていく。 指先に舌がまとわりつく。 その舌を指二本で挟む。 霧「んんっ? い、いやっ……あぅん……やめ……」 霧は指を吐き出してしまう。 太一「ごめん、ちょっとむずがゆくなって」 霧「……そう……ですか……」 赤面して、横を向く。 太一「血は取れた?」 霧「……まだ、少し」 太一「じゃあ頼むよ」 指先を出すと、霧はこわごわと唇を這わせた。 霧「ちゅ、ちゅ……んん、ふぁ、ん……あふ……」 鼻息を止めているせいか、息苦しげな手当だ。 立っている俺。 跪く姿勢で、指をしゃぶる霧。 あの霧がだ。 水位があがっていく。 黒い水がたくわえられる。 いけない、な。 やがて霧は舌を離す。 霧「……終わりました」 太一「さんきゅう」 血も止まっていた。 太一「……曜子ちゃんの言ったこと、本気だと思う」 霧「?」 口元をぬぐいながら、霧は眉をひそめた。 太一「もう武器はなしだ。持たない方がいい」 太一「破ったら、たぶん本気で襲ってくると思うよ」 霧「…………」 肩が小さく震える。 恐怖で。 太一「俺だって、みんなをどうこうしようなんて思ってない」 太一「霧が言うように、ろくでなしではあるけど……仲間を傷つけるつもりはないよ」 霧「本当、ですか」 太一「ああ」 太一「それどころか、怪我したみみ先輩にかわってアンテナを組み立てているところだ」 霧「アンテナ……部活用の……」 太一「あれでSOSを出す。知ってるよな」 霧「……人なんて、もういない」 霧「テレビも映らない。ラジオも。ネットも。電話も」 霧「何もかも通じなくなって……誰が生きているって言うんですか」 それだけじゃない。 世界は前に進むことさえ、放棄している。 永遠の一週間。 俺には、甘美な響きさえともなう。 太一「……合宿……つまらなかったな」 太一「無理矢理セッティングして、苦労して7人集めて、なだめすかしたり嘘ついたりして……」 太一「あっという間にボロが出て」 笑ってしまう。 霧は異質なものでも見る目つきを、俺に投げかけている。 太一「最悪の気分で撤収したよな」 霧「……あなたが仕組んだことじゃないですか」 太一「そう、俺が仕組んだ」 霧「皆の傷口を広げるために」 太一「違う」 太一「皆に仲直りしてほしかった」 太一「昔みたいな関係に戻したかったんだよ」 霧「……嘘です」 太一「本当だ」 霧「仲直りさせる機会を作るため、合宿に人を集めたって言うんですか?」 太一「そうだ」 瞳をしばたく。 水面がふるふる揺れる。 霧「信じたくない……そんなこと」 太一「まあ、いいよ」 太一「要するに、結束するということが大切なんだ」 太一「なんだっていい。部活でも合宿でも」 太一「限られた機材で、みんなでアンテナを立てて、SOSを出す」 太一「そういう希望があってもいいだろ?」 霧「……あなたが……そんな立派な人のわけない」 太一「うん、ぜんぜん立派じゃない」 太一「だが、それはそれ、これはこれ」 一文内に指示代名詞を四回も使うという、近代日本語表現の目指す美学にてらしあわせるとすこぶる不格好な慣用語を用いて、俺は話をそらす。 太一「立派じゃないけど、仲良きことは美しきかな、だ」 霧「……」 太一「と、すっかり忘れていたけど、そっちの怪我は?」 霧「あ、平気です……さわらないでっ」 太一「さわらにゃわからん、と」 ふくらはぎ。 腫れている。 太一「……内出血だな。いい場所に当たった」 太一「歩くと痛むけど、別状はなし」 太一「他には?」 霧「肩を……」 太一「はだけて」 霧「!?」 霧「や、やっぱりケダモノ……」 肩を抱いて、後ずさる。 太一「おいおい、冗談だよ。本気にするな」 霧「そうやって美希や他に人にもセクハラを……してるじゃないですか」 太一「美希はなー、本気でイヤってことはちゃんと拒否するぞ?」 太一「それはだめー、なんてけたけた笑いながらぶん殴ってくるんだからな?」 霧「……美希が?」 太一「そしたら俺も、無理強いはしない」 太一「いろんな接触をして境界線を調整していくのが、人付き合いってやつだろ? 違うのか?」 霧「……キレイな物言いでまとめるんですね……セクハラなのに……」 太一「霧ちんは生真面目に受け取りすぎだ」 太一「肩に触るぞ」 霧「え……きゃっ」 軽く揉んだら、痛がった。 太一「……こっちはまずい箇所に当たったな」 太一「どのくらい痛い?」 霧「……ほとんど……腕も動きます……」 太一「頭上に持ち上げなさい」 従う。 太一「骨に異常はないな」 霧「……先輩が、力を入れすぎるんです」 太一「そんな入れてないよ」 霧「……男の人は、みんな力強いじゃないですか……島先輩とかだって、あんな細いのに一人でモニター持ち上げるし」 太一「……あいつは元バスケ部で……走れないだけで筋力はそのままだから」 ああ、この子はCRTモニターひとつ自力で持ち上げられないのか。 すごく力が弱いな。 部室にあるのは、確かに大型だけど。 肩に触れた時もやけに華奢で驚かされた。 薄い皿みたいで、すぐに砕けてしまいそうで。 放送部で腕相撲したら、最下位になるんじゃないか。 太一「……はぁ」 いたいけな少女だ。 太一「湿布は貼っておくんだぞ」 霧「……言われるまでも、ないです」 悪態に力がない。 太一「よし、じゃ帰るか」 立ち上がる。 太一「ほれ、行こう」 不承不承、ついてくる。 霧「痛っ」 太一「やっぱ痛むか。おんぶしてやろうか?」 わきわきと十指を蠢かせる。 霧「……やめて、来ないでっ」 本気で怯える。 太一「冗談だというのに」 霧「一人で、帰りますから」 太一「一人になったら曜子ちゃんに襲われるかもよ?」 霧「……………………」 無言になった。 太一「さ、行こう」 背後に、とぼとぼとついてくる軽い足音。 自転車は捨て置き、徒歩で帰る。 太一「……いい夜だねぇ」 会話はなかった。 太一「金曜日、か」 世界が揺り戻されるまで、あと三日ほど。 記憶がなくなって全てリセットされて。 ……うそ寒い。 それは死ぬことと大差ないのではないかとも思う。 この一週間は、誌面の記録にしか残されない。 俺がそれを思い返すことはない。 決して。 太一「……」 昔。 こんなゲームで遊んだ。 ロープレ。 舞台は未来。 世界は荒廃し、人々はドーム都市で生きている。 野生動物はモンスター化し、人を襲う。 主人公はモンスターハンター。 日常的なクエストから、やがては世界を支配する存在との戦いへ。 ロープレでは普通、キャラクターが戦闘で敗北すると、魔法や科学等で蘇生させられる。 主人公は何度死のうが主人公であり、パーティーが全滅してゲームオーバーにならない限り、危機的な破滅は起こらない。 当然、主観記憶は保持される。 ところがコイツは違った。 主人公のみならず、キャラクターが死ぬと、それは厳然たる死なのである。 他の仲間は都市まで戻り、死亡者のクローンをセーブポイントも兼ねる施設に要請する。 直前のセーブデータ時の主人公が、そこではポンと精製される。 そして誰も何も疑問に思うことなく、冒険は続くのだ。 ショックだった。 セーブ以降の、死んだ主人公の固有時間は、まったく省みられない。 同じ主人公なのに、違う人間なんだと思って、プレイした。 ゲームは難易度ばかりが高い、バランスの取れていないもので。 けど鮮烈な死のイメージがつきまとい、俺は憑かれたように遊び続けた。 結末は特攻オチだった。 太一「……げんなりだ」 自分がそれを体験するとは思わなかった。 してみると俺は何人目なのだろうか。 五人目。 果たして本当にそうなのか。 記録になければ、それを知る手だてはないのだ。 CROSS†CHANNEL 今日は暑かった。 海にでも行きたい気分。 そういえば、去年はみんなで海に行った。 楽しい海だった。 今でも、皆のはしゃぎようは思い出せる。 冬子「きあああっ!? どこつかんでんのよっ!?」/* 太一「水着のお尻のとこの布」 見里「支倉さんって……黒須君とどういうご関係なんでしょうねぇ?」/* 太一「ん、曜子ちゃん?」 冬子「曜子ちゃん!?」 見里「曜子ちゃんっ!?」 美希「曜子ちゃんっっっ?」 友貴「曜子ちゃん!!」 美希「ヤクザですねもう」/* 見里「カ、カラダはいやぁ〜」/* 遊紗「あのっ、失礼しますしますしますっ!!!!」/* 冬子「ばーか」/* 遊紗「あっ、くるっ、くるるっ?」/* 美希「い、いたい〜、おでこいたい〜」/* 見里「……ぶつぶつぶつ」/* 太一「楽しかったけどな」 楽しい海水浴はこれでおしまい。 美希の傷は、ほんの少しだけ跡が残りそうだった。 それでも帰り道、本人は晴れ晴れとした顔をしていた。 傷ついたかわりに、何かを得たような。 そんな顔だった。 そのあと、見里先輩が放送部用のアンテナ搬入につきあうため、学校に戻って。 まだ姉とは断絶していなかった友貴が、皮肉を言って。 そのシスコンぶりを、当時まだ群青付属三年生だった美希にからかわれて。 遊紗ちゃんが、集団というものに対してはじめて、小さく心を開いた。 そんな海だったんだ。 でも部活があるしな。 先輩の図面。 この泣き言リストが問題点だとして、これを解決すれば発信できる体制になると信じよう。 先輩を信じるのだ。 信じる。美しい言葉である。 乾きを潤してあまりある。 作業開始。 炎天下での作業が続く。 俺は日射には滅法強い。 髪が白いからだ。 これだけでかなり違ってくる。 そんなわけで真夏日だが、作業は進む。 ほどなくして。 太一「……ん?」 霧じゃないか。 フェンスの際に立って、景色を眺めている。 俺に気づいてないのか。 そんなはずはない。大きな音を立てて作業しているのだから。 太一「おーい、霧ー!」 呼ぶと。 霧はゆったりとした歩調で歩いてきた。 霧「なんですか」 太一「いや……特に用事ってわけじゃ……」 霧はちらと興味なさげにアンテナを見あげた。 霧「……部活、本当にやってるんですね」 太一「まあな」 太一「こう暑いと、海にでも行きたくなるけど」 太一「去年は行ったよな。覚えてるか?」 霧「……はい」 太一「楽しかったな。美希には悪いけど」 霧「……はい」 やけに素直だな。 というか様子が変だ。 太一「……どした?」 霧「その……支倉先輩が……」 太一「曜子ちゃんが……監視してる?」 霧「は、はい……」 霧の手が震えている。 あんなに気丈な娘だったのに。 怯えて。 見る影もなく、萎縮していた。 霧「それで」 霧「それで……」 声が震える。 見ていられなかった。 未成熟ながら、美しいガラス細工みたいな女の子だったのに。 触れれば汚れ、掴めば壊れてしまいそうな脆さがあったのに。 こんな……中途半端な有様は、どういうことだ。 曜子ちゃんを恨む気持ちがある。 ああ、俺はまた沈んでいるなと思う。 テンション高めに保っていられる時はいい。 そうでない時、俺の心は沈んでいく。 深い部分。 日が届かない深淵。 光のあたたかさを忘れさせ、ただ個体で生きるものにする場所。 心というものが必要ない場所。 長くいれば、凍った心もやがて退化し、純粋な生きる意志。 自分が深海に生きる存在であるように錯覚する。 それもいいと思うのだ。 たとえば世界に、自分一人だけならば。 傷つけないで済むから。 太一「……霧、部活手伝え」 唐突な提案は、霧の瞳を円形にした。 霧「ぶかつ?」 太一「そうだ」 太一「……一人では……終わらんのだ……助けてくれ……」 先輩から引き継いだ泣き言を、下級生にそのままぶつけた。 霧に脚立の上で作業させることによって、パンチランド建国という幸運も期待している自分がいた。 太一「パンチラはいい……」 霧「今、なんて言いました?」 太一「アンテナがE型という機種でな」 霧「パンチラと聞こえたのですけど」 太一「言ってないよそんなこと」 口笛を吹く。 霧「……何、したらいいんですか?」 太一「手伝ってくれるの?」 霧「命令なんですよね?」 太一「……あー、まー、そーねー」 霧「借りは返しきっておきたいですし、手伝います」 太一「わーい」 霧「ただし!」 俺の言動を遮って、強い語調で。 霧「和解するつもりは、まったくありませんから」 太一「いいよいいよ」 太一「それもまた人生よ」 霧「指示を下さい」 太一「んじゃー、まずこれを見てくれ」 図面を渡した。 キッと引き締められた顔。 一分後には、渋面になった——— 見里「は、はえ〜」 先輩が来た。 太一「あ、先輩」 脚立の上からコンニチハ。 霧「……どうも」 見里「ふわ〜」 太一「萌え語連発ですな」 太一「しかしその二つはいまいち古い」 太一「22世紀を生きる萌えっ娘であるなら、ゆあーん、とか、ゆよーん、くらいは———」 見里「詩人の中原中也じゃないですか。パクりですか」 きりっとした顔で。 太一「……げ、知ってる」 見里「中原好きなんです」 太一「い、いや、温故知新といいますか王政復古といいますか……古きをたずねて新しきをしるみたいなっ」 見里「なんのこっちゃです」 太一「とりあえず……退院おめでとうです」 見里「あー、そんなたいした怪我ではないので」 太一「痛みはないんですか?」 見里「……平気です、けど」 じっと、見られる。 俺も先輩の美乳をじっと見つめた。 見里「あ、あの、どうしてアンテナを?」 バストを両腕で隠しつつ、問いかけてきた。 太一「……気まぐれです」 見里「気まぐれって……」 太一「気まぐれなのです」 見里「……っ」 不満げな顔。 太一「健全かつ健康そのものの俺は、前向きに生きていたいんです」 太一「そしていずれは、酸いも甘いも噛み分けたヤングアダルトへと変態していくのです」 見里「へ、変態にっ!?」 さらにバストをかき抱く。 いいなあ先輩は。 自分のおっぱい揉み放題だもんなぁ。 太一「違います!」 アンテナの反対側、霧が息を落とす。 太一「あ、そうだ。質問したいこといっぱいなんですよ」 図面を取り出す。 太一「ここにあるメモが、ちょっと意味わからなくて」 霧「終わったら、こっちもお願いします、部長先輩」 見里「は、はぁ」 太一「あとバッテリーって、どうします?」 見里「え、学校に停めてある車から……と思って」 太一「そりゃ男の仕事ですね。桜庭にやらせます」 見里「え、でも桜庭君が手伝ってくれるとは限らないですし……」 太一「手伝えって言えば手伝いますよ、たぶん」 太一「あいつのんきに生きてるだけですから」 見里「いや、そーではなくぅ……」 先輩の本音はわかっている。 部活は、自分一人の逃避だったんだ。 みんなでやっても、先輩の乾きは癒されないのだ。 ずっと、時間がかかるならそれでよかった。 無尽蔵に没頭していられるように。 太一「ねえ先輩、これって、完成してSOS発信したらそれで終わりなんですかね?」 見里「ええ、一応……」 逃避とともに終わる。 だからこの人は、一人で作業していたんだ。 終わらないように。 太一「SOSを発して、すぐ反応があるとは限らないですよね」 見里「はあ……」 太一「指向性の問題もあるでしょうし……」 太一「FM電波だけでなく、ハンディ無線機も使うんですよね?」 見里「ええ……」 太一「じゃあ受信も考えないと」 見里「ああ、そうですね……」 太一「放送局みたいなもんですな」 太一「開局して、反応があるまでずっと維持していかないといけない」 見里「…………ぁ」 太一「忙しくなりますよ」 見里「…………」 先輩の顔に、赤みがさしていく。 見里「そうですね、確かに」 見里「うん、そうかも……」 見里「忙しいのは、いいことですよね?」 太一「いかにも」 太一「それに、みんなでやった方が楽しいですし」 太一「三人でやれば、一日で終わるかな?」 霧「……こっち、少しきついです。全然わからないですし」 太一「うーむ。メカニカルに詳しい美少女がいれば」 見里「なぜに性別指定……」 と、ここで都合良くぱたぱたした気配が接近してきた。 美希「霧ちーん、いるー?」 扉をあけて、美希。 太一「ビンゴー!」 見里「え……なにです?」 事情を話した。 美希「ふいー、健全なことを」 太一「君のハイテク知識が必要だ」 美希「PCならともかく、無線はわかんないですよ」 太一「成績いいじゃん」 美希「専門技術には役に立たないっす」 太一「難しい本も理解できるってことだ」 美希「いや、いやいやいや……」 美希「と言いますか、メンツに加えられようとしているわたし……」 ちらりと相棒に視線をやる。 美希「霧ちんもいるし」 霧「……ごめん」 美希「あやまらなくてもいいけど……驚いたなぁ」 美希「霧ちん、じゃあアレはどうするの?」 霧「……ごめん」 美希「中止?」 霧「……うん。その……いろいろと事情があって」 太一「アレとは?」 アレ。いたいけな少女たちのアレ。 秘密のアレ。 美希「事情といいますと?」 霧「ごめん、その話はここではちょっと」 聞かれたくない話か。 美希「ふーむ。じゃあ……」 美希「にゃー?」 鳴いた。 霧「……にゃあ」 美希「にゃんにゃかにゃかにゃか」 霧「……なーご」 見里「ね、猫語?」 太一「そのようで……」 俺たちは怖がった。 はじっこで震える二人をよそに、美希と霧はにゃーにゃー鳴いている。 ほどなくして。 美希「なるほど……そんなことがありましたか」 納得していた。 太一「今ので通じてるのかよ」 最近の若者は、マイ言語まで創りあげてしまうのかよ! 美希「じゃあさ、じゃあさ、建国しても軍隊も持たないみたいなことになっちゃうんだね」 霧「……うん。それでもう無理だと思って」 美希「軍隊ではない自衛力とかいうくくりで武器を持つとか?」 どっかの国みたいだな……。 太一「察するところ、俺絡みの会話なんだろうけど」 太一「美希ちんもナイフとか持ってたろ? あれは捨てた方がいいかな」 美希「便利なんですけどねぇ、あると」 霧「ナイフなんて持ってたんだ?」 美希「にゃー」 霧「あ、ごめん」 太一「すげー便利だなあ、それ」 どういう文法なんだろう。 美希「日常のありとあらゆる場面で活躍しますよ」 太一「……うーん、まあ霧ちんに渡したりしなければいいんでない?」 美希「はい。ではそのように」 美希「いやー、しかし霧ちんとせんぱいが和解とは……世も末ですね」 霧「和解したわけでは」 太一「……だそうで」 美希「ふーむ」 美希「先輩、ちとこちらに」 手を引かれ、アンテナから離れていく。 会話が霧たちに届かない位置。 太一「……んで?」 美希「だいたいの事情は聞きましたけど」 あの猫語、すごいな。 美希「先輩の方は、それでいいんですか?」 太一「いいとは?」 美希の疑問が、よくわからない。 美希「確かに霧ちんは、先輩のことちょっぴりその……苦手みたいで……」 太一「嫌ってたよ。はっきり言って」 美希「あはは……まあ」 苦笑い。 美希「実は、二人だけでみんなと離れて暮らそうって誘われていたんです」 太一「え、どうして?」 美希「霧っち、人間不信なんですよ。で、こういう無秩序な状況になったら、先輩みたいな人のそばにいるのは危険だって言うです」 いやー、良い眼力だ、霧ちん。 美希「だから……そのぅ……先輩のことをですね」 太一「仮想敵国にしていたと」 美希「……はい」 肩を落とす。 美希「理由は……霧ちんも言ってくれないんですけど、いつ頃からかそうなって」 太一「うん」 美希「最近は、ちょっとノイローゼ気味っぽかったんですけど」 美希「……そんな霧ちんと、うまくやっていけそうですか?」 不安そうに、美希は問いかけてきた。 太一「うん、俺が霧ちんとうまくやる約束で、曜子ちゃんから手を引いてもらったんで」 美希「支倉先輩って……先輩を傷つけると?」 太一「どこからともなくあらわれる」 美希「ヒーローみたいですね」 太一「そうだね。俺ヒロイン」 美希「女顔してます」 太一「……これでいい目見たこと一度もないです」 太一「怯えられたり押し倒されたり混乱されたり」 美希「……そんなもんすか」 太一「いっとき、人に会いたくなくなった。人と会話するのがいやだった」 美希「今は全然反対ですけど」 太一「糧だから」 美希「はい?」 太一「……必要なものだからな」 太一「食い物が嫌いだけど食わないと死ぬって状況」 太一「心の中でいろいろありまして、食う方に流れたわけだ」 太一「人が俺に対してよからぬことを考えるのは、顔のせいだと思った。わけもわからず気になったのは、目だな」 美希「目?」 太一「目が他人と違う気がして……いや、顔の造作も普通じゃないような気がして……」 美希「小ぎれいですよ。いわゆるハンサムではないですが」 太一「皆、そう言ってくれるけどね」 美希「ははあ、ソレが先輩の心の傷ってやつですか」 太一「んー、こんなのはオマケのオマケみたいなもので、本当は……」 こらこら、と自分を諫める。 太一「とにかく取り引きなんで、曜子ちゃんに手を引いてもらうために霧は無力でいなければならないわけです」 美希「話飛びーの」 太一「ということで霧ちん借ります」 美希「あのう……いじめないでやってくださいね? いじりがいはあると思いますが」 太一「……善処します」 美希「なら、わたしもつきあいます」 こうして。 美希も加わることになった。 誰もいない。 ここ数日、冬子を見ていない気がする。 太一「気にくわないこともあるだろうけど、明日から部活、来てみないか?」 などと独白する。 冬子がいたら、そう言ってやろうと思っていたのだ。 青春ごっこをするなら、全員がいい。 今日は日記も記し甲斐がある。 ちなみに『日記を記す』は文法上の間違いじゃないぞ。 日記は名詞だからな。 などと額になるようなことも織り交ぜつつ、カキカキしていく。 ※額になる=太一誤字。学になる、が正しい。太一は『知識は額縁のように自分を彩ってくれる』というような意味合いで間違えている。 できたら日曜日には全員集合といきたいものだ。 あー、日曜は日記に記録できないな。 でも、そういう光景を一度見ておきたい。 リセットは、もしかするとすごく恐い現象だ。 死と同一の。 だから……せめて……。 太一「誘ってみるか……」 郵便局に向かう。 強襲、郵便局。 ハガキを三十枚ほど強奪する。 帰りは、これみよがしに交番の前を通ってくる。 ついでに交番も強襲しておく。 入るのははじめてだった。 太一「ほー、これが交番の内部かー」 拳銃とかないのかな。 手錠があった。 他にめぼしいものはない。 太一「いけね」 こんなことしてる時間はない。 急いで帰る。 ハガキを書く。 太一「さてと……」 方々に。 慌ただしい夜である。 CROSS†CHANNEL 太一「……さてと」 まだ気温もそう高くない午前中。 一人屋上に来る。 アンテナと土台の鉄塔を見あげる。 確かにこれは……一人で行う作業じゃないな。 素人によっていびつに組み立てられたアンテナ。 波長と指向性の怪物みたいな姿になっていた。 太一「さて」 作業に取りかかることにした。 ……。 …………。 ………………。 太一「くそ、わからん」 黒須太一、文明の利器にはちと弱め。 友貴「……なにしてんのさ」 太一「いや、こうやって作業進めておけばぺけくんすごいです大感動です濡れちゃいますブチューッ……みたいな。よっ、友貴先生」 友貴「ブチューはないだろう」 友貴「部活か」 太一「そうそう」 友貴は気怠げに地べたに座る。 友貴「ほれ」 太一「お、サンキュ」 缶ジュース。 あまり冷えてはいなかったけど。 友貴「……太一は、どうしてそんな熱心なん?」 太一「お、マジ質問青春風味」 友貴「わけワカメだよ」 太一「ちょー面白い、そのギャグ」 友貴「おいおい、おまえ自分でこんなモノ寄こしておいてはぐらかすなや」 友貴は一通のハガキを出した。 太一「寄こしたというか、人間の手で投函したんだけどな」 友貴「……どうして部活なん?」 太一「俺からも一つ、いいか」 真面目な顔で。 友貴「ん?」 太一「おまえと……姉さんに関わることだけど、いいか?」 友貴「…………」 太一「真面目な質問だ」 友貴「……OK。なに?」 太一「うん」 少しこわごわと、質問を押し出す。 太一「どうしておまえは関東の人間なのにたまに『〜なん?』とか『そうやん』とかのエセ関西弁をまじえるんだ?」 友貴「最高に姉貴と関係ない質問だよ!!」 友貴「帰る……」 太一「まーまー、待ちたまえよ。ロマンは一日にして成らずだ」 友貴「気を抜いてくれてありがとう太一くん」 太一「そうシニックになるな、つまりあれだよ。ほら、目的があった方が生き甲斐が出るだろ?」 友貴「……生き甲斐ね」 友貴「けど生きる糧があるならそういうのもいいけどさ」 太一「それにこういうの、憧れてたんだ」 友貴「こういうのって?」 太一「青春群像グラフティー、どんな味なんだと思うよ?」 友貴「いや、お茶じゃないから」 友貴は立ち上がり、アンテナの周囲をまわった。 友貴「それで……それだけで?」 太一「することがあるのはいいもんだ」 友貴「……あるじゃん。別に。物資探すとか、さ」 太一「少なくともこの部活は、希望がある」 友貴「絶望を確認することしかできないかもよ?」 太一「絶望を確認するという希望がある」 友貴「……わかんないよ、太一の考え」 太一「そーかー?」 友貴「どうしてそんな楽しそうなんだ」 太一「へっへ」 友貴「ほんと、信じられないね」 友貴は腕で目元をぬぐった。 友貴「僕にわかるのは……このアンテナとモービル用機材の結線だけだ」 太一「とっとと頼む」 友貴「なんだよー、もちょっとそれっぽく感動とかしろよー」 太一「ばか、内心泣いてるっての。号泣だっての。泣き感動路線だっての」 友貴「そうは見えない〜」 太一「男同士でジメジメしたって寒いだけだ、そーいうイベントは貴様のねーちゃんと起こすわい」 友貴「ひでー!」 太一「さあ、そうと決まったらとっとと働け! 放送予定日は明日じゃい」 友貴「へいへい」 友貴「じゃ機材、調達してくる」 友貴「……太一?」 校舎に戻る足を止め、友貴。 太一「ん?」 友貴「……てっきり姉貴と仲直りしろとか言うのかなって思ってた、姉貴を手伝えよ弟だろって」 太一「いや、姉弟喧嘩なんてごくまっとうな人生じゃん。止めんよ」 友貴「……」 太一「要するに俺様を手伝えということだ」 胸を張る。 友貴「……おまえ大物」 太一「適応係数80オーバーのオーバーロードですから」 友貴「……そのオーバーロードとも、これからも普通に友達してやるよ。そういうの、嫌いじゃないから」 さっと校舎内に消えた。逃げるように。 太一「キライジャナイカラ……ププ!」 そう言った友貴は、一瞬で人類の限界まで赤面しきっていた。 太一「照れるくらいなら言うんじゃねーっての。まったく」 アンテナを見あげる。 太一「でも、これでちっとは進捗すんな」 楽しい部活ごっこ。大切な思い出となりえる。記憶に残りはしないけど。そんな可能性があったことを、日記に残しておこうと思った。 CROSS†CHANNEL 美希「おはよーございーまーす」 太一「部室行って新しい軍手持ってきてくれる?」 美希「いきなり使われるわたし……」 校内に消える。 見里「おはようです」 太一「肩揉んでください」 見里「あ、はい。もみもみ」 肩をマッサージさせながら作業。 見里「あまりこってませんね」 太一「気分の問題で」 見里「もみもみ。って、どうして私が肩もみをっ」 気づいた。 太一「つい」 霧「……来ました」 太一「おはようのキスをしろ」 霧「え……………………?」 見里「そんなこと強要したらだめですー」 太一「はぎゃー!」 軽く見えてヘビィな一撃だった。 美希「軍手、取ってきましたー…… はっ、寝てる!? 人を使っておいて、自分は寝ているっっっ ……ズボンおろしの刑に処します。ずるずるー♪」 見里「ちょっと山辺さん、パンツもおりてますよっ」 美希「ずるずるずるー♪」 見里「ちょっとちょっとっ!」 美希「だって、もう女がここまで来たらおさまりがつかないですよ。このまま貫くしかありませんです」 見里「言ってることぺけくんっぽいですよ……」 美希「師匠と弟子っすから。霧ちん霧ちん、ほらほら、なんか見えてるよ?」 霧「見たくないってば!」 美希「そーれそーれ…… うわー、出たーっ、ぽろんって、なんか出たーっ!!」 美希「出ちゃいましたー!」 見里「だから言ったのにー!」 霧「なんかかぶせといてよー! 気になるー!」 ぎゃーすかぎゃーすか 太一「……う、ううん……」 騒がしくて目を覚ました。 美希「にゃごー、もう近寄れないですー!」 見里「と、取り返しのつかないことをっ」 霧「美希がやったんじゃない、責任取ってしまってきてよ!」 美希「むりむり、物理的に無理! 処女ですし。ここは年長者の部長先輩が」 見里「わ、わたしだって処女です! 年長者とか関係ないですよー!」 美希「……先輩も未経験なんですか?」 霧「わ、わたしもだからね……ゼッタイ無理だからね……」 美希「乙女には、あの物体は手厳しすぎます!」 騒がしいなあ。立ち上がる。妙に涼しかった。風が肌に突き刺さるほどに感じられた。風邪かな。 太一「あのー?」 三人の目線が、一斉にこっちを向いた。そして一斉にぎょっとした。 太一「どうしました、お嬢さんがた、フッ」 紳士口調で問いかけた。 三人「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」 耳をつんざく悲鳴×3。脱兎の如く逃げだした。そこで俺も、脱兎の如く追いかけた。 太一「どうしたというのです、娘さん?」 見里「こ、こないでくださーい! 近寄らないで、いやー、気持ち悪いーっ!!」 太一「えーーーーーーーーーーーっ!!」 拒絶。 拒絶されてる。 俺またまた、拒絶されちゃってる。 人にキモがられる運命。 太一「ちっくしょーーーーーーーーーーっ!」 むきになって追いかける。泣きそうだった。 太一「髪が白いのがそんなにおかしいかー!」 美希「全然そんなこと責めてないですー! あー、きちゃだめー! きあーっ!」 太一「俺はそんなに不気味かーっ!」 美希「あっはははははははははっ!! きゃーきゃーきゃー!! 揺れてるー!! 揺れてるよーっ!!」 こいつだけは楽しそうだな。 太一「俺の心も切なげに揺れとんのじゃー!!」 霧「ちょ、やだ、やだやだやだやだっ、やだーーーーーーーーーーっ!」 太一「そんなにいやかー! 人格面で嫌われるならそりゃ仕方ないが、外見に嫌悪感を示すなんて人として最低だーっ!」 目標を切り替える。 太一「どっしゃらーーーーーーーっ!!」 霧「いやーーーーーーーーーーーーーっっ」 太一「おらおら、手が届きそうだ霧さんよぉ!」 美希「あー、霧ちんが陵辱されるー!」 見里「行ってはダメ!」 美希「でも霧ちんが……霧ちんがー!」 見里「もう助からないわ……」 美希「そんなっ、このままじゃ霧ちんの貞操が……」 見里「佐倉さんの犠牲を無駄にしないためにも、逃げましょう!」 美希「霧ちん……ごめん……きみのこと忘れないっ」 霧「ちょっと嘘でしょう!? 先輩! 美希ー! ひとでなしーっ!」 太一「観念するんだな佐倉霧……いや……愛奴隷・佐倉霧!」 フェンスぎわに追いつめた。 霧「ぐ、ぐ、ぐ〜」 半泣きだ。ますますそそられる。 霧「ぐ、ぐ、ぐ……さ、さわるな痴漢ーーーーーーーーっ!!」 太一「ぐあーっ!」 キレた霧に蹴倒された。 太一「ぐぬう」 身を起こすと、三人はあたふたと校内に消えていくところだった。 太一「……うう……ううう」 泣いた。屈辱の涙だった。こんな悲しいことがあるだろうか。人間の価値は外見なのか。普段は可愛いとか言ってくれたのも……全部嘘なのか。白い髪。独特な虹彩を持つ瞳。鼻も少し曲がってるかも。奇異な風貌に見えるのは仕方ない。だが、変えようがないじゃないか!マイケルのように、整形しろとでも。だいたい目も髪も整形なんてできない。それに……負けを認めているみたいでいやだ。 ああ〜。 人に拒絶されるのは本当につらいなあ……。なんのために道化を演じているのか、たまにわからなくなる。俺は物語の主人公のように皆に愛される存在を目指しているだけなのになぁ。少し誇張しすぎてカリカチュアライズな面もあるにはあるが。 ある……けど……さ……。 太一「おおう」 嗚咽。世界はどこまでも残酷だった。うなだれる。チ○ポ出てた。 太一「なんだそりゃあっ!」 しかも精神的に虐げられたせいで、ギンギンになっているではないか。マゾだから。ズボンとパンツは。 太一「うおっ、あんなところに?」 倒れていた箇所。身につける。 太一「そうか……おてぃむちむを出してたせいか……」 少し救われた。 太一「にしても、どうして下半身脱いでたのかな……俺」 謎が多い事件だった。 と言いますか。 太一「……見られた……三人に」 死にたくなった。 こんな時こそポジティブ・シンキング! 太一「フルスロットルになっていればこそ、火星人であることが露見しなかったのではないか!」 桜庭「仮性なのか?」 太一「成長期だからな」 友貴「ふーん。知らなかったよ。大変だね」 太一「いつ来たっ」 よよと泣き崩れた。 ……見られたばかりか聞かれた……。 もう俺のシモ関係はズタボロだ。 友貴「今だよ。ほら、こんなところだろう?」 二人は機材を抱えていた。 桜庭「案ずるな太一」 太一「なにがいね……」 桜庭「サイズと膨張率の関係で、きっとどうしても皮が余ってしまうんだ」 太一「嬉しくねぇよそんな慰められ方!」 友貴「とりあえずこれどうする?」 太一「お、サンクス。適当に置いといて。で、責任もって接続してくれ」 友貴「使われる……いいように使われる…… あとは何がいりそう?」 太一「バッテリーがいるんじゃないかな。校内にあったっけ?」 友貴「合宿で使ったやつがあったかな?」 太一「あとテントがいる。機材が熱でやられるし、雨振ったらあれだし」 桜庭「テントならここに三つあるけどな」 太一「なんだってジョン? どこにだい?」 わざとらしく問いかける。 友貴「悪いけどオチは読めてる」 俺も。 桜庭「俺たちの……ズボンの中にな」 太一「わはははは!」 友貴「あはははっ」 桜庭「フフフ」 でも受ける。三馬鹿、下ネタだーいすき。 友貴「じゃあれだね?」 太一「え、なになに?」 友貴「ぷぷっ……ふ、普段はたたんでしまってある」 太一「わははははは!」 桜庭「はははっ」 芋蔓式に受ける。 桜庭「で、高さに個人差があったりな」 友貴「ぷぷ!!」 太一「あとさ、ワンタッチのテントってあるじゃん。ポンッって弾けるみたいに組み上がる小さなテント。あれみたいに興奮したら瞬間的ににょっきり設営———」 友貴「……っ……っ!!」 桜庭「……くくくっ」 互いの肩を叩きながら、腹を抱えた。 太一「特許取れ特許」 桜庭「バイオ技術を応用したテントだな」 友貴「お、おなか痛いんですけど」 太一「で、ヒット商品になってインタビューとかで発想の元とか訊かれてさ……ち○ぽですって答えんのな———プッ!」 自分で吹いてしまった。 桜庭「……っっっ」 友貴「もっ、やめっ、やめ、腹筋の限界……」 三人で息を整えた。 太一「とりあえず、ちゃんとしたテントだな」 話を元に戻す。 友貴「あー……そういや去年の部費の使用予定にあったよな。あれって買ったのかな?」 太一「すまん……それ俺のせいで流れたんだ」 友貴「え?」 桜庭「……新川豊の件だな」 その一言で、粛とした空気。 友貴「……そうだったね」 太一「まあ、俺はいろいろいわくもあるしなぁ」 桜庭「気にするな。おまえは一人でやり遂げる男だと、俺は信じている」 太一「一人でやらせる気なのかよ! というかなんのためにハガキを出したんだよ俺は!」 桜庭「信頼。美しい言葉だ」 友貴「めちゃめちゃずるい使い方だよ……」 太一「ええい、いいからテントとバッテリーをひろってこい!」 桜庭「では俺はバッテリーを」 友貴「僕はテントか……一人で持てるのか?」 太一「車使えば?」 友貴「……免許持ってない……って、そうか」 太一「フフフ、ポリはいないんだぜマイフレン」 そもそも勝手に放送局作ってしまうことがすでに犯罪である。 友貴「運転してみたい。車のことはよく知らないけど」 太一「マニュアル車って方が簡単だぞ」 友貴「マニュアル?」 太一「ああ。ペダルが三つある方。職員用の駐車場ですぐ見つかると思う。ペダル二つの方はダメだぞ。あれは素人が動かすとかなり危険だからな」 友貴「おーけー」 太一「じゃラバはバッテリーな」 桜庭「ああ、任せておけ。一つ質問なんだが」 太一「ん?」 桜庭「それはどんな形をしているんだ?」 太一「友貴、桜庭も連れて行けよ。でテントとバッテリー両方な」 友貴「……ああ、そうするよ」 桜庭はスタンドアローンで使うと泣きをみるしょっぱい男だった。二人は去った。 太一「さて」 そろそろ昼だろうか。腹が減った。曜子ちゃんの弁当があるわけだが……例によって二人分だな。 誰かと食うか。 二年教室……不在。 冬子は本当にどうしたんだろう。 ハガキ見なかったのか。 ……お嬢様だから自分でポストとか確認しないのかもしれない。あとこんなご時世に、まさか郵便が来るとは考えないか。あとで様子、見に行ってみるか。で、一年教室。張り紙の位置とか同じだけど、たまたまだろう。フラワーズはいない。 別の教室も見てみるか。 いない。ここも一緒だ。本の傾き具合まで似ている。 次は、と。 黒板消しの位置まで一緒である。こういうのを同一性があると言うな。 でも、偶然なのだ。そうなのだ。とりあえず美希も霧もいない。……本気で逃げやがって。 どこで食べよう。 霧の座席で食ってやるぞ。 今日は握り飯だった。ふりかけなどがまぜてあり、いかにもうまそうだ。 太一「いただきます」 もぐもぐ 霧「……なぜわたしの席で……」 太一「おかえり」 霧「あの……そこ……わたしの席……」 太一「そうだね。座ったら?」 霧「…………席が……」 太一「ああ、そうか。ごめん」 別の椅子を借りて座り直す。対面に。 霧「……あの」 太一「食べたまえ。二人分ある」 霧「……美希が、調達してくるので……」 太一「つまむ程度かまわないだろ?」 霧「……はあ」 手を伸ばす。突破成功。まあ、霧も弱気になっていたしな。 太一「刃物とか武器になりそうなものには触れるなよ」 霧「……はい。死にたくは、ないですから」 太一「うむうむ。曜子ちゃんは強いからな。有言実行だし」 霧「……あの人は、どうしてあんな石投げがうまいんですか? おかしいですよ、ゼッタイ」 太一「たいがいのことは上手だよ。根本的なデキが違うんだろう」 何をやっても瞬時でコツを掴む。 霧「特殊な訓練を受けてるとか?」 太一「あー、受けてたね。なんか長期休みごとに、どっかの外国とか行って現地の軍事インストラクター雇って」 霧「軍事っ……」 絶句する。 太一「投石もその時に習ったのかな。もしかしたら本物の羊飼いから習ったのかも…… まだ痛む?」 霧「……どうってことは」 太一「それは重畳。他にもいろいろやってるはずだよ。人生のほとんど自己の訓練に使ってる感じ。俺もいっぱしの格闘家だけど、歯が立たないよ」 霧「格闘なんてやってたんですか?」 よくぞ訊いてくれました。 太一「カラデという」 霧「……知りません」 太一「えっ?」 霧「空手のパクりですか?」 太一「違うわこのガキ!」 霧「きゃっ」 太一「……あ、ごめん……ついカッとなって……」 霧は三メートルも逃げて、戦闘態勢を取っていた。 太一「戻っておいで、食べたりしないから」 不安げに戻ってくる。 太一「ささ、食べて食べて。優しい俺ですよ」 空手のパクりと言われると、我を忘れてしまう俺でもあった。 霧「……」 太一「言わないけど、たぶん銃器も使える。格闘というか、組み討ちになったら一瞬で殺されるんじゃないかな。いろんなワザ持ってるし、こないだすごく高価なナイフ買ってたし」 霧「……そんな……いくらなんでも殺すなんて……」 太一「自分だって俺のこと殺そうとしていたくせに」 霧「…………」 太一「まー、気にしないことだ」 霧「先輩は……平気なんですか。わたし、あなたのこと……憎んでいます。 命を助けられて、何もできなくなった以上、こういう状況は仕方ありません。でも……あなたのことは変わらず嫌いです」 太一「ふむ」 霧「そこは、勘違いしないでください」 太一「してないよ。それでいいと思うし」 霧「……でも、一緒にごはん食べて……馴れ合ってしまっては」 太一「近くで見たいだけさ」 霧「……近くで? 何を?」 太一「霧ちんを」 にっこり。 霧「か、からかって!」 少し赤面。 太一「宝石は触れて愛でるものじゃない。見て楽しむものだ」 霧「……先輩には、確かにそんな部分があると思います。気にくわないです。そんなに女の子で遊びたいんだったら、支倉先輩とそうしていればいいじゃないですか。わたしたちは、あなたのための娯楽道具じゃないんです」 太一「だめ。彼女は自分を持ってない」 霧「え……?」 太一「逃げてるんだよ。昔からそうだ。イライラするよね」 霧は意外なものを見る目つきを投げかけてきた。 霧「……わたしには、先輩がたの関係が理解できません」 太一「ま、あんま気にしちゃイヤン」 俺と曜子ちゃんのヒストリーは、楽しい思い出ではないのだ。何一つ。 太一「娯楽道具については、どうにもならんかな。 ……これで精一杯なんだ」 霧「というと?」 太一「うーん……」 考える。 が適切な解説が構築されない。だいたい霧ちんは、だいたい俺を見抜いているのだから、ことさら説明する必要もない。 太一「ああ。あと、できたら俺のそばにいた方がいいぞ」 霧「え……?」 太一「強く言ってあるから平気だと思うけど、俺が目を離してるときに霧ちんになにかする可能性もあるし。俺にバレずに霧ちんをくびちょんぱしちゃうとかね」 霧は首筋をおさえた。 霧「……く、くびちょんぱ……」 がくがく震える。 太一「自分の命のため、俺のそばにいないといけない……ってことでいいじゃないか」 霧「……もちろん、そうですけど……」 太一「和解というか休戦って感じだな」 霧「…………」 太一「そーいうわけで、今後は仲良く喧嘩しよう」 左手をさしだす。 霧「……は」 不承不承、霧は右手を……出すが握手が出来ない。むっとして、手を引っ込める。 霧「…………馬鹿にしてますっ」 太一「だから冗談にいちいち怒らないでくれ」 ちゃんと右手を出しなおし、霧の右手を握る。細く薄い手。確かに武器なんて似合わない。曜子ちゃんという危険な橋を経て、少し関係が改善されたようだ。 太一「じゃあ休戦調停を祝っておむすびパーティーだ」 美希「ちょーたつかんりょー! ……あれえ?」 太一「おつかれ」 美希「なぜ一緒してますか」 太一「俺が誘った」 美希「……こわいお人だ……敵さえも味方に……」 太一「これが三顧の礼だ」 霧「……違う……」 美希「あー、なんか食べてるー、この大量の食料はどうするのー?」 美希はトートバックの中身を、どさどさと机に落とした。山になって机から溢れた。 太一「おおおおおおっ!全部お菓子じゃないか!」 美希「てへっ」 霧「……缶詰とかは?」 美希「なくなっちった」 太一「うーむ。お菓子を昼飯がわりにするのは……つらそうだ」 美希「そうですか?」 太一「健康にも悪い」 美希「でも美希はお菓子が大好き」 霧「わたしも、もうおなかいっぱいだから」 太一「悪い、俺も」 美希「……えー。じゃあ一人で食べますもん」 むくれた。 霧「……太るよ」 美希「……太ってもお菓子大好き」 ポテトチップを食べ出す。 太一「内心気にしてるんじゃないか」 美希「だってだって〜っ」 霧「泣かないでよ……」 太一「ほれ、じゃあこの握り飯をやろう」 成人男性サイズになっているから、霧ちんにはちょうどいいだろう。俺が多少物足りないが……まあいいか。 美希「あああ、手料理だぁぁぁぁ〜」 ひし、とおにぎりを持った手にすがりつく。 太一「欲しいかー? んー?」 高く掲げる。 美希「あっ、ほしいですー」 太一「ほれほれ」 右に。 美希「ああうう〜」 太一「うりうり」 左に。 美希「ううああ〜」 霧「……いじめだ」 太一「……ほれ」 美希「ああ、おいちいっ」 はみはみと食べ始める。お菓子の山が残される。 太一「……女の子なのに不安な食生活だな。いつもこうなの?」 霧「缶詰とかパンとかです」 太一「野菜食え」 霧「ありません」 太一「ほれ、トマトだ。ちょうど二つある」 美希「ああー、トマトだぁ〜」 太一「んー? 欲しいのか?」 美希「ほしいっす!」 太一「ほれほれ」 右に。 美希「ああうう〜」 太一「うりうり」 左に。 美希「ううああ〜」 霧「…………やっぱりこの人は……いじめっこだ」 太一「ふう」 霧「ん〜〜〜」 美希「すっぱい〜」 霧「でもおいしい……」 美希「涙出そう」 霧「生きてるっていいね」 美希「にゃう〜」 どんな食生活だったんだ、この二人。美希と霧が、口を『*』状にしながらトマトを食べる様を横目に見ながら、俺は水筒で喉を潤した。 太一「げほっ、がほっ!」 見てる見てるっ!!じっくり見られちゃってる!! 嫉妬のかたまりだな……。俺に気取られるように姿を見せているってことは……当てつけなんだろうな。くのいちだから本来隠密度高いし。俺なんかに見つかる彼女ではないのだ。 美希「どうしましたっす?」 太一「……俺たちは市原式諜報術で監視されているのだ」 美希「市原?」 太一「E・市原を頂点とする、凄腕くのいち集団が伝えるスパイ技術だ」 美希「?」 霧「きゃああああっ!?」 霧も見たらしい。 霧「先輩っ、せっ、せんぱ……あ、あれあれ……」 太一「平気だ、俺のそばにいるんだ」 霧「……は、はい……」 美希「え? え?」 霧「あ、あれ……」 霧が指さす。美希が「んに?」と見る。 曜子ちゃんの姿はない。 美希「……え? なにもないけど、どったの?」 霧「い、今確かに……先輩?」 太一「志村現象だ。美希にはもはや物理的に曜子ちゃんを観測することはできない」 ※志村現象=太一物理学。安定している特定状況内で発生する観測問題の一種。見る者は見るが、見えないものは見えないまま属性が固定され、それが物理的に反映される。状況内で大きな変化があると属性は破棄されることが多い。 あああ、見てる……。 霧「……くっ」 霧は死ぬほど緊張していた。反射的に肩を抱く。ひく、と曜子ちゃんの目尻が震えた。これは滅茶苦茶珍しいことです。 霧「……う、ううう……」 霧は緊張していて、俺の慣れなれしさには気づかない。切羽詰まった猫みたいだ。 太一「……細い肩だなあ」 愛おしい反面と、壊してしまいたいという欲求。二つは同時に存在していた。 ……手を離す。 太一「霧ちん、気をつけろよ」 霧「……というと?」 太一「危害はないとしても、嫌がらせをしてくる可能性がある」 霧「い、嫌がらせ? 具体的にはどうなんです?」 太一「えーと……かなり陰湿だと思うよ。尊厳を奪ったり、シャレで済まないギリギリのところで辱めたり」 霧「……あなたと一緒じゃないですか」 太一「うっ」 霧「……やっぱり……信頼できない」 霧は美希のそばに戻っていった。あああ、同性に寝取られた。 太一「おのれっ」 美希を恨んでみる。 美希「……はいぃ?」 さてと。 部活の方は、他の人々に任せて、と。冬子を拾ってきますか。 車で行こう。 職員室から鍵をあさり、合う車を探す。 太一「おわ……」 駐車場は惨劇になっていた。まるで暴走車が、当て逃げを繰り返したみたいに。 太一「全部凹んでる……」 こっちはバンパーがもげてる。木が折れてる。フロントに放射状にヒビが。 太一「……友貴先生……」 神々しいまでに運転の才能がない友貴だった。 太一「やっぱ素人にミッションは無理か、ククク」 そこへ行くと俺なんか、ちゃんと乗り方知ってるもんね。人間としての格の違いってやつか。キーの合った車に乗り込む。男だから当然ミッションだ。 オートマ。女子供の乗り物だな。 太一「ケッ、見せてやるぜよ!」 荒々しい俺だった。ちょっと龍馬入ってる。半クラッチから見事にアクセルを繋いだ。いかん、目の前の車にぶつけてしまった。シートベルトしててよかった。とりあえず後退しよう。 太一「バック石松、バック石松っと……」 タイヤ止めを乗り越えて背後の樹木をへし折ってしまったぞ。 太一「バッドだぜ〜」 こんなミス、百万回に一度もない。超レアイベントだ。 リトライ。しまった、ギアがバックのままだった。百万分の一に百万分の一をかけると……いくつだ。 まあいい。きらめくほどに俺は奇跡的なのだ。高そうな車なのに……すまん、今は亡き榊原教諭。 前に出る。おっとっと、サイドブレーキ入れたままだった。 戻す。がくん、と車が急加速する。横一列に並んでいた車の鼻先をかすめながら、バンパーをもぎっていく。かなり効率よく破壊してしまったぞ。 やべー、校長のフェラーリもひどいことに。 太一「……」 ま、いっか。こんな危険な学校でフェラる方が悪い。 ※フェラる=太一語。二つの意味が。㈰フェラーリのオーナーになること。㈪(全略) ゆっくりと前進。右折。 太一「いいぞ」 エンストした。 太一「…………」 リスタート。バックした。 太一「……」 つくづく思うけど、シートベルトって必須だよな。 太一「くじけずGO!」 車が動かなくなった。 太一「……うーむ」 バイオリズムが不調らしい。 太一「しかし日本車のもろいことよ」 こんな車で西部の警察に配属されることなど、夢のまた夢。せいぜいが放水車で破壊されるが関の山。曜子ちゃんが窓を叩いていた。 太一「……なに?」 窓をあけて。 曜子「おりて」 おりる。 曜子「待ってて」 太一「……うん」 地面に『の』の字を書きながら待っていると、奥からするすると車が走ってきた。淀みのない運転で、目の前に停車。 曜子「乗って」 助手席に乗る。 曜子「どこに行きたいの?」 太一「……桐原城ですお世話になります」 連れて行ってもらった。悲しい気持ちでいっぱいになった。 冬子の家は大きい。 大きすぎて陽光を遮り、一面の闇にしか見えない。俺は夜目がきくが、なぜかまったく見えない。人類が消えてしまった今、その程度の不思議現象は気にする価値もない。 中に入る。 当然のように、鎧とかが置いてある。 ……のかも知れないが、窓が締め切ってあるから真っ暗だ。これではいくら夜目がきいても、視界は確保できない。 屋敷をうろつきまわる。 迷路のようだった。 冬子の部屋はどこだろう。 二階かな。 階段をのぼる。 なんかゾンビが出そうな屋敷だなあ。 太一「冬子ー!」 返事はない。声は屋敷の豪奢な絨毯に、吸い取られてしまう。 部屋を一つ一つ確認していく。 面倒。 ……曜子ちゃんについてきてもらえばよかった。 と、無数にある扉の一つを開くと。 光がさしこんだ。 太一「……………………」 窓は全開だった。そっと入り込んだ風が、室内を旋回してまた出ていく。だからだろうか。 腐臭さえしない。 太一「……冬子」 触れる気がしなかった。嫌悪感ではない。その有様が、尊く思えたからだ。眠り姫を思わせて、気高い。 群青の冬子は一人だった。もとはお嬢様学校に通っていた。適応係数調査試験で弾かれて、ここに来た。……屋敷ごと。 適応係数は百分比で表される。冬子は46。群青では、高からず低からず。乱暴なものの見方をすれば、半分は普通だったと言える。孤高でいる時の冬子は、誇りと屈辱にまみれて…… キレイだった。 会話を拒絶した。教師に対しても。学校に来ても制服を拒み、内にこもって人を拒み。どこにも属さず誰にもへつらわず。けれど心の中は、人への渇望で揺れていた。 だから俺は、すぐに惹かれてしまった。そして今、冬子は寝台の上で小ぎれいに手を組んでいる。自分でそうしたのだろうか。眠るように去ったのだろうか。きっと、そうなのだ。 悲劇的な結末だとは思う。一般的には。けど悲しささえ圧倒的な尊厳に塗りかえられて。俺は感動し、佇んだ。 太一「……そうか」 一人で去った。あの冬子が……一人で。 太一「やるな……冬子」 衰弱か。薬か。餓えか。それはわからない。暴く気もない。 一つ言えること。 天蓋つきの寝台に抱かれ、時を止めたように横たわる冬子の様は、夢と現実のあわいを感じさせて幻想的だった。 祝福を。 扉を閉める。 闇に一人。 屋敷を出ることにした。 リセットが発生すれば、また彼女に会える。その事実が脳裏に呼び覚まされたのは、屋敷を出る直前だった。尊さも、繰り返されれば輝きを失う。冬子の決意とか、寂しさとか、闘争とか。 ……イライラした。 汚されたように感じた。じゃあ、俺は何のために……冬子を突き放したのだろう。帰りの車でも、イライラは消えなかった。 さておき部活だ。トイレに寄る。ナチュラルに女子トイレに入る俺。鏡を見る。 自分の顔がうつっている。白い髪。独特の模様を持つ瞳。どちらかと言うと鷲鼻。自分の目からだと、そう見える。整っている、と言う人もいる。 女顔だと。 まあ、そうなのだろう。だから『あんなコト』になるわけだし。俺の意見は違う。この顔は、どことなく異質で、おどろおどろしい。 しろう屍蝋めいて、人とは思えない。 ……人形だ。ハンス・ベルメールの球体関節人形。 美もあろうが、ぎょっとする不気味さ……闇を含有している。暗がりを好む輩に好かれる道理。 そして俺もまた、同じ暗がりに寄り添ってしまう。けど俺は……普通がいい。人間は長い歴史の中、どんな倫理を組み上げようとしているのか。 明るく闇のない健全さか。 ……それは間違ってはいないか。 押し込めるほどに、闇は凝縮してしまわないか。常闇から生まれてくるもの。果たして、人と言えるのかどうか。黒々とした人の髪が羨ましい。羨ましくてたまらない。染めようかとも思った。けど頭髪の成長ははやい。生え際からたちまち白が侵攻してくる。黒毛に透けたくすんだ灰色を見るたび、意識してしまう。全て装飾に過ぎないと。今の俺が、まさにお飾りであるようにだ。 薄気味悪い顔。 吐き気がした。そう見えるのは、自己嫌悪のせいもあるだろう。 太一「……」 ああ、まずい精神状態だ。冬子の件を、俺はあまりにも良いものと感じすぎている。退廃を愛してしまっている。沈みすぎたら、いけない。 個室から物音がした。 太一「…………」 迷うことなく、足が向いた。 ☆☆☆☆☆☆ 霧「……え?」 個室には、霧がいた。唖然としている。青ざめた顔。体調が思わしくなさそうだ。個室の入り口を、両手で塞ぐように位置取る。 これで、逃げられないね、霧。 太一「どうしたの?」 他人のような、淀みない声。心が急速に落ち着いていく。平静さを取り戻していく。視界が鈍くなる。細かなディテールが判断できなくなる。きっと瞳孔も変化しているだろう。 暗闇に煌々〈こうこう〉と輝く双眼。ここは少し薄暗いから、霧にも見えているに違いない。 ぴく、と霧の指先が動く。敏感に反応してしまう。 太一「どうしたの?」 霧「あ、あの……」 異常な空気。霧も感じている。俺の言葉があまりにも穏やかなので、当惑している。 霧「……気分が……悪くて……」 太一「それは大変だ。大丈夫?」 霧「……はい……あの……わたし……」 太一「ん?」 霧「……あの……生理の……終わりが重くて……」 太一「へえ。そうだったのか。知らなかったよ」 怯えている。ガラス細工。美しく繊細な。イノセンス。 太一「どんな風に重いの?」 霧「全体的に不安定で……サイクルがさだまらなくて……」 太一「ああ、それは君の年ごろだったらだいたいそうさ」 美しい瑠璃。 太一「成長途中で、ホルモンバランスが未成熟なせいだよ」 俺のビードロ。 太一「特に霧は体つきが華奢で、成長が遅れているようだから」 抱けば壊れる。 霧「……そ……ですか……」 抱かねば、育ってくすむ。 ガラスが土塊〈つちくれ〉に。 太一「そうそう」 美しさは、損なわれる。 霧「さっき終わったみたいなんですけど……残血が……多くて……」 普通になる。普通の女に。 太一「うん、で?」 今だけの霧。 霧「そのとき……よく貧血に……」 太一「ふぅん。で、その残血というのは……」 いつも美しかった。 悩めるときもすこやかなるときも。 太一「今も?」 今も。 霧「……ひ……」 表情。明瞭な恐怖。深閑とした暗黒が、個室に満ちていく。 太一「今もつらい?」 霧「……なにを……しようと……?」 今まで浮かんでいた薄笑いを、すっと消した。 太一「……俺の質問に答えるんだ」 霧「いゃ……」 焦がれる。 焦がれて、触れたくなる。 じりじりと高まる衝動。 葛藤と呼ぶべきものはある。 だが抵抗する理性は、はりぼてにも劣る。役不足もいいところだ。 太一「答えるんだ」 霧「……どこか……いってよぉ……」 この脆い芸術を、どうして今まで放置していたか。 太一「答えたら、行ってあげるよ」 霧「…………今……も……です」 うかつに触れたら、指紋がついてしまいそうだったからだ。 太一「ふうん、じゃあ。その股ぐらから垂れているのが、そうなのかな?」 霧「……っ!?」 驚く霧。気づいていなかったのか。緊張で感覚が麻痺しているらしい。 太一「……濃い血だね」 見てしまった。 血を。 こんな精神状態で。 でも。 構わない。 霧を、永遠にしてやるんだ。 ミルククラウン。 一滴の生み出す、刹那の造形。 ガラス細工の霧もまた、砕ける一瞬がもっとも。 もっとも——— 太一「濃い血だ」 霧「あ、ああ、いや、いやぁ……」 距離を詰める。 霧「いや、いやいや……こないで、こないでよ……」 子猫みたいに震えている。 太一「この地球上で、どれだけの数の子猫が苦しんで死んだか考えたことはある?」 太ももに触れる。薄い皮膚。沈む指先。突き破ってしまいそうだ。ぐいと体内に押し込む。 霧「ひやぁぁぁ」 苦痛と戦慄。声が引きつる。可聴域から飛び立つほどに高く細く。 太一「猫が五匹を生んで、一匹は拾われる。幸せに生きる。ハッピーエンド」 指先を滑らせる。内側に。 太一「二匹は餓えと寒さで死ぬ。苦しい。最後は気が狂ってるかもしれない」 血に触れる。どろりとしていて、まるで精液だ。 太一「一匹はどこかに歩いていって、野良犬に食い殺される。苦しみは少ないかもしれない。ただ生きてきた意義は、老い先短いだろう野良犬の一食」 太一「その犬が、兄弟や母猫を食い殺すための活力になるかも知れない。実際そういうことが起こってないとは言いきれない」 指先を持ち上げた。霧につきつける。 霧「……は、は、はっ……」 呼吸が浅く荒い。ひどい汗。 可哀相に。 太一「残った一匹はどうなった?」 霧「はっ、はっ、はっ……」 霧の視点は指先に結ばれている。 太一「……車に轢かれて死ぬんだよ。子猫だったら一瞬でぺたんこだ。苦しみもないけど意味もない。意味もないって……そんな死なんだぜ? そんなことが、今までどれだけ繰り返されたんだ? ………口をあけて」 霧「……ふぁ」 言葉が届かない。 太一「口をあけてくれないか」 霧「ひどいこと、しないで」 やっとのことで言う。 太一「口をあけたらひどいことはしない。ほら、あーん」 霧は従った。指を突っ込む。 霧「んんんっ!」 太一「……舐めて。そら……そう、いい子だね」 指を抜く。 太一「世の中は苦痛とかさ、不幸とか、そういうもので満ちてて…… すごく不安になるんだよな。だから繋がりたい。一刻もはやく、一時でも長く。そうやって繋がっていかないと、残酷な世の中で生きるための普通がわからなくなるからさ。けど満ち足りてる奴らは、全然盲目でさ。自分は孤独なんて恐くない、なんて言うんだ。いかに自分が自立して有能であるかをしたり顔で語るんだ。そんな連中は、クズだよ。本当の孤独もしらない、普通に生きるための心もすでに手に入れてる。遠い世界の人々だよな。俺たちみたいな、心を育てあぐねた人間とは違ってさ。遠い世界であるうちはいいんだけど……近寄ってきて、俺たちを食い物にしようとするだろ? 霧だって、よく知ってるはずだよ」 顔を近づけて言う。 霧「……あぅ、あ、はっ……」 ほつれている。一時的なものだろうが。 太一「自分で言ってたろ。世界が恐いって。正義は奴らのための正義なんだよ。俺たちのためのいいものなんて、何一つ残ってない。でも、生きたいじゃないか……なあ?」 重い経血。 赤黒い。 霧の大腿に、唇をつける。 舌を当てた。 霧「……いやぁぁぁぁぁぁっ」 舐めとっていく。 哀れなほど震える下肢を、両腕で抱え込む。 霧「ひっ、ひくっ、ひっ……うぁぁぁぁぁ……」 脚をつたって、付け根に達する。 下着はもうダメになっていた。 立ち上がる。 霧が俺を見る。 怯えと……微量の敵意。 それは本格的に憎悪するための下準備。 憎めばいいさ。 簡単にやり直せる。 どうせ俺たち固有の尊厳は、週末とともに全部なかったことにされるんだからな。 太一「……」 上体を傾けて、壁に押しつけていく。 霧の下着に手をかける。 首筋に舌を。 霧「……ケダ……モノぉ……」 ののしる言葉が嬌声のよう。 下着の脇から指を入れて、陰部をまさぐった。 霧「……してやる……ころ……してやる……先輩を、殺して……やるから」 太一「ハハッ」 俺は下半身を露出させ、密着していく。 霧はぎゅっと眼を閉じた。 個室になにかが投げ込まれ、乾いた音を立てた。 見る。 缶が回転しながら飛んでいる。壁に跳ね返り、床に落ちていく。その光景はひどくスローモーに見えた。 意識が極限まで加速。 缶は飛ばない。誰かが投げた。誰が? 今考える必要はない。投げる。意図。意図を持って投げた。目的は? 缶を投げることによって期待できる効果。投げた缶が効果を発揮。 炸裂? 投擲する武器? 手榴弾等。狭い室内。破壊力増。死? 死。死。範囲攻撃。回避不可能。位置関係。俺は確実に死。俺は死。確定。 霧は。 口はあいてる。眼は閉じてる。 霧の耳を押さえるようにして、頭部を抱きかかえた。 小さい頭だ。可愛いな、霧は。一秒が無限に感じられた。 無限の瞬間、霧を愛おしいと感じた。 そしてソレは弾けた。 室内が白くなった。轟音。圧力波が背中を押す。 霧「っ!!?」 胸の中、霧がすくむ。俺はすくむどころではすまなかった。 眼が灼かれた。 耳が麻痺した。 全身が硬直していた。 動けない。 これが……爆死。 違和感をおぼえる。 あらゆる感覚が剥奪されている。察知できないということは、こんなにも心細い。状況さえ把握できずにいる。首根っこを引っ張られた。 背後に倒れ込む。 誰かが支えてくれる。 ああ……。 懐かしい香りだ。昔から変わらない。彼女の……ほのかな甘み。 曜子「……」 支倉曜子——— 廊下に引き出される。 太一「あ……今の……?」 やっと舌がまわるようになった。体はどことなくおかしい。手足がひきつるような感覚だ。 曜子「……フラッシュバング」 太一「フラッシュ……爆弾?」 曜子「いわゆるスタン・グレネード。特殊閃光手投げ弾」 太一「ああ」 そうか。どこかで見た缶だと思ったら。 太一「……昔の……アレかぁ」 曜子「うん」 可愛らしく、微笑した。彼女との思い出話は、こんなものばかりだ。 曜子「理性は……取り戻せた?」 太一「うん……平気」 曜子「ごめんなさい……手荒い真似をして」 太一「いいよ」 仕方ない処置だったはずだ。 太一「でも、どうしてわざわざ止めてくれたの?」 曜子「…………」 太一「別に俺の危機ってわけでも……」 そこで気づいた。そう、俺の危機だから助けてくれたわけじゃない。俺が霧と繋がろうとしていたから、だったんだ。しかも……一番ピュアな俺として。 嫉妬。 嫉妬に過ぎない。 気持ちがしぼんでいく。 太一「どうして君は……堕落しようとするんだよ」 曜子「……だって」 太一「まただって? 一人で生きられるくせに。俺なんか必要ないくせに」 曜子「……必要よ。半分だけでは、生きていけない」 太一「俺は半分なんかじゃないよ」 曜子「……太一」 論理的な返答はなく、ただ頭を抱きしめられた。キスをされる。お上品な作法で。抵抗は……しなかった。 曜子「太一、立てる?」 太一「ああ……」 五感はほぼ回復していた。 太一「制服がホコリまみれだ」 曜子「……少し汗くさかった」 太一「毎日同じの着てるし」 曜子「…………」 無表情に呆れる。 太一「え、普通そうじゃないの?」 曜子「……ばっちぃ」 太一「じゃー離れてくれていいよ」 曜子「…………」 無表情に悲しげになる。 太一「だいたい冬子だって毎日同じ服着てたじゃないか」 曜子「アレは同じ服を何着も持ってるから……」 太一「なにぃ?」 霧「……う……」 ふらふらと、霧が出てきた。 太一「霧……」 霧「……黒須……太一」 敵を見る目だった。 ……当然か。 霧「よくもっ……よくも、よくもっ!」 悲しみの涙ではなかった。虐げられ、奪われ、玩弄された者だけが持ち得る感情。 ……純然たる怒気。 義憤だった。 霧「やっぱり……あなたは……あなたたちは……狂ってる!」 太一「……」 曜子「……」 曜子ちゃんが、刃物を取り出した。大型ナイフだ。霧の顔が蒼白になる。 太一「ちょっと」 曜子「……憎しみにとらわれていて、太一にとって危険だもの」 太一「約束を破るの?」 曜子「でも」 霧「なにをいまさら」 割り込んでくる。 霧「……どうせ……生きていても、あなたの食い物にされるだけじゃないですか!」 太一「どう言い訳していいものかわからないけど……ごめん!」 応援団なみの謝りっぷりだと自画自賛。霧は一瞬ぽかんとしていた。が、すぐ屈辱に歪む。 霧「……理解……できない。なんですか、それ……なんなんですか、あなたは? 理解できない、理解できないですっ! ……もう……いいです……」 乱れた胸元を抱えて、歩み去る。 太一「ちょっと待ってよ」 黙殺。 曜子「……太一……のめりこみすぎ」 追いかけようとすると、背後から声がかかった。 太一「いいじゃないか。どうせ繰り返されるんだ。俺の固有の時間なんて、無意味なものだろ。日記の情報量を増やすためにも、いろいろするべきだ」 曜子「それだけで動いているなら確かに……けど太一のは違う。太一は、壊れた玩具を大切にしすぎる」 太一「死ぬまで、君とだけ向かいあって暮らせとでも?」 曜子「そう、昔みたいに」 太一「……他の誰とも繋がらず。小さな輪の中で、ずっと……」 曜子「大小は主観だもの。100人の家族に暮らすのと、私と暮らすのに、大きな違いがあるわけじゃない。太一の判断基準は、普通を意識しすぎてると思う。自分に必要なものは、自分の分析から来るものなのに」 太一「……普通で何が悪いんだ」 曜子「太一には、合わない。彼女たちは、一時の玩具にしかならないのに ……もたない。すぐ終わる。太一自身が、終わらせてしまいたくなる」 太一「…………」 そうかも知れない。さっきのように。彼女の言いたいことは、わかる。 けれど。 太一「今週は好きにさせてもらうよ」 曜子「……そう」 太一「もう今日は帰っていいから」 曜子「そんな追い返そうとしなくても……」 太一「見守ってくれなくていいって言ってるんだよ。だって、たとえ危険だったとしても明日は日曜だ。ご破算の日だよ? 無茶したって構わないでしょ?」 曜子「……固有の時間」 太一「え?」 曜子「今のあなたが固有の時間を生きているように、私もまた、固有の時間を生きてる。今のあなたと対になっているのは今の私だけ。当然のことだけれど…… 固有の私の願望は、次週のそれとは別物で………だから、その……」 訴えかけるように。 曜子「私たちは毎週、滅びてる。個別の滅び。つまり。毎週、別の私たちということ……」 太一「……!」 俺と同じ思考を。 曜子「他の週にいる私がどうなろうと、知ったことではないけれど……」 涙。 曜子「いろんな可能性の中に、太一が私に優しくしてくれることは……あるの?」 太一「それは……わからないけど」 曜子「ノートには、そんなパターンはなかった ……望むものを得ることなく霧散するばかり」 太一「その話はあとにしよう」 曜子「あとなんてない。私は欠けたまま、消えるだけ。さようなら、になるの」 太一「……そう」 曜子「ごめんなさい……もう邪魔しない……」 踵を返す。 曜子「でも、これだけは記録しておいて」 背中で語る。 曜子「……どこに行っても、あなたを理解してくれる人なんて……いない」 言葉は重い石となって、胃に落ち込んだ。 太一「……………………」 廊下を歩む姿が、芥子粒大になって消えるまで、見送った。決して嫌いなんじゃない。だけど……彼女の願望には、矛盾がありすぎる。二人の線が交錯することは、ないように思えた。 霧を探す。 なんのために。 謝罪。 それとも……。 わからない。 衝動に突き動かされて、校内を彷徨う。 屋上には先輩と美希がいた。 友貴たちはまだ戻ってないらしい。 太一「美希」 美希「あ、桐原せむぱいはどうでした?」 心臓がかすかに跳ねる。だが、その程度だった。 太一「……元気だったよ。元気に嫌われた」 美希「オス、予想通りです」 太一「俺もだ」 二人で笑う。 太一「作業どう?」 美希「なんとかかんとかです」 太一「……それはいいのか悪いのか」 美希「なんとかなりそうかな?という感じです」 太一「いいね」 美希「しかしですね、さきほど校内で爆発音があったのですよ」 太一「ぶっ」 そりゃ響くか……。 美希「わたくし、先ほどまでみみ先輩と抱き合って半泣きでガタガタ震えていたので、その分進捗遅いです」 太一「うおー、可愛らしい絵だな」 美希「あれはなんだったのか……正直、トイレに行きたいのですけどこわくて校内に入れません」 太一「俺の目の前でしてくれるなら、簡易トイレをもってきてやろう」 美希「うわぁ……悩ましい……」 頭を抱えた。というか、そんな場合じゃなかった。 太一「と。実は俺の仕業なのだ」 見里「そ、そうなんですか……結局、あれはなんだったんです?」 眼鏡が傾いて曇っていた。本気でビビッていたらしい。 太一「目覚まし時計です」 美希「……欠陥商品ですね」 太一「だから捨てたよ」 見里「そうだったんですか……よかった……テロとかじゃなくて」 太一「テロする人いませんからね」 美希「あ、じゃートイレに行ってきますんで!」 鳥のようにばたばた手を振って、美希は走り去る。 太一「ちゃんと流せよー!」 美希「それは言わない方向でー!」 太一「大? 小?」 美希「小さい方ですよーだ!」 舌を出して、校内に。 太一「……つうことで、俺もちょっくら」 見里「ぺけくん」 落ち着いた声音。 太一「はい?」 見里「……お礼を言わないと、いけないのかもしれないです、わたし」 太一「お礼?」 見里「いえ、なんでもありません。どちらに?」 太一「はあ、霧ちんをちょっと探してきます」 見里「またいじめましたね?」 まるで微笑ましい出来事であるかのように。 太一「……はい、ちょっと。すいません」 見里「いいえ、そっちの方が大切ですから、ちゃんとフォローしてあげてくださいな」 太一「そうします」 と、また俺は嘘を重ねて。 霧の気配をたどる。 こっちに歩いていったから……教室かな。 校舎は……出ていない、と思う。 一年教室に。 そして——— いた。 無防備な背中は相変わらずだ。とりあえず話しかける。 太一「……あのー、霧ちん?」 俺はどうしたいのだろう。 わからない。 謝罪。 破壊。 わからない。 わからない自分が、うとましい。 霧「……」 振り返って、霧は言った。 霧「あなたは、薄汚い人殺しです」 絶句する。 おおよそ、下級生から言われる言葉じゃない。 太一「……ま、まあお怒りはごもっともではあろうが……ねえ?」 霧「怒り? そんな簡単な感情じゃない。あなたは……敵です。あなたは———」 静かな声。 静かな面差し。 静かな……告発。 霧「豊を、殺した」 太一「…………まいったな……どうしてそんなことを?」 霧「わたしは知ってます。あなたがあの日、屋上で豊と話していたこと」 太一「…………」 知られていた。 知られていた、知られていた。 霧にあのことを知られていた。 太一「あの日?」 いけない。 心が一気に。 氷結していく。 霧「豊が死んだ日です。……ずっと、疑ってた。けど……わからなかった。だからあなたには関わりたくなかった。けど、あなたから関わってきた」 霧の双眼には、確信があった。 それはもはやくすぶってはおらず、炎上し、瞳孔に攻撃的な色を宿らせている。 太一「ちょっと待ってよ。おかしいじゃないか ……もし俺が豊を殺したのだとしたら、君に話しかけたりすると思う?」 霧「……話しかけないと思います。普通は」 太一「確かに……俺も普通じゃないけどさ」 霧「わたしたちはあなたの獲物でしかない。あなたは、餓えを満たしただけ。人間の普通なんてどうだっていいんです。あなたはそういうものなんです ……人間の心を食べる、怪物なんです」 太一「…………」 好き放題言ってくれる。 太一「あのさ……俺と豊はダチだったんだよ。殺す理由がない」 霧「動機なんて不要です。餓えに理由なんてない」 太一「ん〜〜〜」 頭をかく。 太一「じゃあさ、どうしてわざわざ豊を獲物にしないといけなかったわけ? 仮に俺が怪物くんで、他人が獲物だとしても、男よりかは女の子の方がいいような気がするんだけど?」 霧「……フライドチキンの性別が気になりますか?」 太一「ん……」 ああ言えばこう言う。 霧「少なくとも……あなたがわたしを見る目は……そうでした」 太一「あれはだからさー……そのー。男だから、いろいろと盛り上がってしまって」 霧「アレは、違う」 太一「経験あんの?」 霧「……ありませんよ。けど、異質なものくらいはわかります」 そうか、この子。 眼力があるんだったな。 悪意を見抜く力というか。 鋭すぎる洞察力か。 その目で見るなら、世界が恐いというのもうなずける。 状況証拠と直感とで、疑問の余地はなくなったわけか。 霧「……ずっと疑っていた。でも、この数日……わたしはあなたに気を許した。それが悔しい…… でも。それであなたの正体がわかりました」 霧は窓の外に手を垂らした。 霧「あなたは……」 引き上げる。 布包み。 窓枠の向こうの段差にたてかけてあったのか。 布を取り払うと、 霧「薄汚い人殺しです」 太一「……」 二つ目……つまり美希の分だったわけだ。見事に誘い込まれた俺、という構図。 霧「動かないでください」 太一「こんなことを言うのは男としてはずかちぃのだけど……曜子ちゃんが怒るぞ」 霧「いいんです。あなたさえ排除できれば」 太一「うーん」 霧「わたしの次は誰ですか? 部長先輩? 桐原先輩? それとも……美希?」 太一「……誰も獲物にしたりしないよ」 尊く、自分さえ保っていてくれるなら。人は人を求めるものだけど。自己を相手に仮託したら、おしまいだ。そうなる前に、距離を取るしかないじゃないか。 世の中、優しくないから。 そのことを霧は理解しているはずなのに。この矛盾……わかってるのか、霧。 霧「信じる義理はありませんよね」 武器を構える。この距離なら当たるだろう。霧が練習していた、木との距離と重なる。外しはすまい。 太一「……俺を殺せば、霧も死ぬことになっちゃうよ?」 霧「構わないです」 笑う。 霧「だって、どっちにしろ世界はもう終わりなんですから」 太一「君の嫌いな人はいないのに」 霧「……いなければいいというものじゃないです。正しくあってほしかっただけです! ……あなたにも……」 太一「…………」 純粋な殺意。 結晶化し、小さな霧を取り巻く文目〈あやめ〉となって、彩る。俺が死ねば、霧も死ぬ。覚悟の上で。冬子と一緒だ。それを良いと思ってしまう俺がいる。反面、人恋しくもある。 思い出が欲しい。 記録したい。 心に刻みたい。 思い出さえあれば、その輝かしい宝石さえあれば———……俺は、本当に人の気持ちをエサにして生きる怪物かも知れない。 霧「死ぬ前に、言い残すことはありますか?」 通告をする霧の手は、哀れなほど震えている。恐いんだ。 人を殺すことが恐い。 精一杯に張りつめた心。その不安と理性の風船を割るには、わずかな刺激で事足りる。針の先ほどの。 ……助かる手はある。 死んでやろうかとも思う。 迷い。 ……無理だ。 死を受け入れるわけにはいかない。確かに俺は自分が嫌いだ。すべて嫌いだ。自分の醜さ、欲深さが憎らしい。霧が抱く憎悪以上の自己嫌悪。けど……自殺するならとうにそうしていた。 生きるんだ。 そうでなければ……なんのために闘ってきたのか。 生きるために、たとえ霧を……壊すことになっても。 太一「……一つ質問なんだけど、屋上で俺と豊がいるのを見たってのは……君?」 霧「ええ、そうです。当時はなんとも思わなかった。けど……今はわかります。トイレでしたみたいに、豊を……追い込んだ。自分を満たすために!」 太一「どうやって?」 霧「……豊の脚のことを責めたり……いろいろです。具体的に聞きたいとは思いません。もういいですか?」 変わらず、手は震えている。殺す前に、自分がまいってしまいそうだった。 太一「一つ、いいかな。少し長い話になるけど」 霧「……どうぞ」 内心どう思ったのか。感じさせないよう平坦に、霧は言った。 太一「……座っていい?」 霧「どうぞ」 太一「霧も座ったら?」 霧「…………」 黙殺。 まあいい。 俺は話し始める。 太一「支倉って家があったんだ、昔。大きな家でさ。洋風で。桐原の家を十倍くらい大きくしたような。大富豪ってやつだ。俺は……幼い頃に母親を亡くして、そこに引き取られた。そこに住み込みで働く、母親の遠縁にあたる管理人夫妻にね。古い風習がある家でさ。下働きの子供は、やっぱり下働きだった。俺は子供だったから、家の子供たちの遊び相手みたいな役割だった。曜子ちゃんはそこの末娘だった」 ……。 …………。 ……………………。 彼女はいつも一人だった。 親族や使用人の誰とも、交わろうとはしなかった。 孤高の君——— 俺は、彼女を内心でそう呼んでいた。 言葉をかわしたことはない。 気にはなっていた。 屋敷がどのような人々によって維持され、いかなる経緯をたどってこの有様になったのか、俺は知らない。ただそこは、時の流れから隔絶された楽園のごとき場所だった。住むのもまた、浮世離れした人々で。 ときおり俺は彼女らに招かれ、甘い飲み物を振る舞われた。 着飾り、茶を楽しみ、人を招き、散策。毎月頭には大量の書物・衣類・嗜好品が届いた。 広い庭。 庭師という人々もいた。 人里離れ、地代が安いことを差し引いても、なお広漠〈こうばく〉たるものがあった。 小さな俺にとって、お屋敷は広大無辺〈こうだいむへん〉な世界そのものだったのだ。実際、屋敷時代以前の記憶はない。世界と屋敷は同じ大きさだった。 ある頃からか、俺はご婦人がたに気に入られるようになった。女のような顔をしている、とのこと。また俺の白い髪と、間近で見るとわかる不思議な模様を描く瞳も、彼女たちを退屈させなかった。 少女の着るような(それもとりわけ華美な)ドレスを着させられた。 そしてお茶の相手。子供にお茶の味などわからない。でもつきあった。砂糖菓子めいて甘やかな人々に対し、逆らうという選択肢はなかった。 ……イヤではなかったし。 こうして幼い子供らに馬乗りにされ髪引かれる玩具業務から離れた俺は、新しい仕事として人形業務に就くことになった。そんな俺を、彼女……孤高の君はひややかな視線で見ていた。いや、見てさえいなかった。興味がないらしく、視線はいつも俺を素通りしていった。 支倉曜子。 末娘。 ただ家族からは、それほど可愛がられている様子はない。むしろ疎んじられていた。なるほど確かに彼女は、なかば夢幻の住人であるご婦人がたとは、違う世界に生きていた。 ……現実という世界に。 一度、掃除の人夫として駆り出されたことがある。 人形ハジメマシタ、以前のことだ。使用人さんたちにまじって参加した。通いの人間は使わない方針だったためか、人手の貸し借りは茶飯事だった。十時と三時にお茶の休憩を一時間ずつ挟みながら、順番に部屋を掃除していく。 夕方には彼女の部屋に辿り着いた。 はじめて彼女の声を聞いた。 曜子『……ここはいいわ』 短くそっけない。 機能的。 けど、蠱惑的だった。ちらりと見た室内は、とても乙女の部屋とは思えない。 数台のパソコン。 四方の壁を覆い隠す本棚と、そこにおさまりきらず床に堆〈うずたか〉く積まれた書物。 重々しい工作台と、使い込まれた工具。 かなり広い私室は雑多な知識と技術で埋め尽くされていて、秘密基地を連想させた。 なるほど確かに一人だけ異質な者が、異世界にはいたのだ。 綺麗な衣装を着て、女の子の言葉遣いでお茶の相手をしている時、支倉曜子について問いかけたことがある。 もの静かな老婦人は答えた。末の息子のそのまた娘と。 若く快活な婦人は答えた。望まれて生まれた娘ではないと。 姦しい三姉妹は囀〈さえず〉った。若旦那とうら若き使用人との秘められた恋物語と、その顛末。 誰にもなつかず愛を知らない娘の咎と、訪れるであろう悲劇的結末。 支倉の血でありながら支倉の一員ではない、そんな汚点に対する嘆き。要するに忌み子だったのだ。誰も彼女に語りかける者はなく、彼女もまた誰にも語らなかった。 腫れ物だった。 彼女の実父である若旦那なる人物は、海外に留学してしまったそうだ。母親の使用人は……亡くなっていた。何者にもなれない少女。誰にも求められない少女。 傷つく。 否。傷つかない。 支倉曜子は強かった。 意に介さなかった。 たぶん気づいていたんだと思う。 世界が箱庭であることを。 人形生活の合間、俺は図書室に通った。影響を受けたのかも知れない。貴婦人からは作法とお茶を学んだ。けれど知恵と技術と真実は、そこにはなかった。補うために、使う者の少ない図書室に通い詰めた。曜子ちゃんとはよく出会った。依然として会話はない。 なんとなく癪〈しゃく〉だったので、俺からアプローチすることもなかった。 好ましくは思っていたけど、仲良くなりたいと願いはしなかった。俺の美的傾向は、この頃から確立されたようだ。なんというか……自立しているものに惹かれた。独力で生きるものと、力に。知識にしろ技術にしろ、そういう側面がある。 人は群れる。群れることを渇望する。そして同時に、聖域を持とうとする。侵害されない自分のための場所を欲する。 しかし人と接すれば境界線は揺らぐ。 領土は減ったり増えたりする。 不快。 矛盾。 一般的な価値観では、豪壮なる千の軍隊より、一人の英雄が好まれる。 単一の絶対者。英雄。 人の望むもの。 憧れという形をとった、願望に過ぎない。 一人で生きたいのか、群れて生きたいのか。 閑話休題。 図書室では、彼女の読んだ本を追って読んだ。 憧れから。 あるいは少女の完璧さへの嫉妬から。 書物の内容は高度過ぎてほとんどわからなかった。 けど読み続けた。 図書室では何百回となく出会い、すれ違った。 一度の会話もない空間を、俺たちは共有し続けた。 そういう時代が、数年間続いた。 で、だ。 楽園には崩壊がつきもの。これは人類最初の楽園からしてそうだから、避けようのない摂理と考えられる。 崩壊。 具体的には、屋敷のご当主である支倉氏の急激なる凋落によって。悲劇のはじまりだった。支倉のお上品な人々は、いなくなった。 使用人たちは残された。 支倉のかわりに入ってきたのは、新興の人物とその親類縁者だった。粗暴な人々であった。老若男女、揃ってやってきた。全員が、腐肉あさりの素質を持っていた。 三日経たないうちに、使用人の一人が暴行された。 事件である。けれどここは箱庭だった。閉鎖された空間。独自の秩序が発生した。広大な土地に囲まれた屋敷ともなれば、治外法権に近い。 日々、どんな饗宴が繰り広げられたか。屋敷の一室は、もとは夜会に用いられていたホールだった。支倉の人たちは、ちょっとしたパーティーが大好きで、よく使用されたものだ。 粗暴な人々は、ここを別の夜会に用いた。上品な会話も上質の料理もなく。かわりに堕落と退廃が満たされた。 ……きっと、何人も犠牲になったのだと思う。 たとえば、若い使用人の夫婦がいた。妻が輪姦された。 いや。 輪姦され続けた。 ありとあらゆる方法で肉体をはけ口にされ、従属させられた。夫は抵抗した。妻を助けようと警察に連絡を取った。警察は介入してこなかった。たぶん面倒だったのだと思う。別に買収されてもいなかっただろう。 屋敷のネットで調べてみた。 警察のこうした対応によって看過された犯罪は、数限りなくあった。民間の権利意識が肥大化すると、おいそれと介入できなくなるのだった。 些細なミスを、親の仇のように責める人間が増えるのだ。 動かないのが一番。 怠慢ではあろうが。 不完全な人間の組織としては、この程度が限度だと俺は思う。 誠実さは必要だろうが。 自分を助けるのは、自分の有能さだ。 ……と思えば腹も立たない。 大きな実害を被らない限りにおいて、他人の不手際や浅い見識に腹を立てるということは。心の一部を、他者に委託していることになる。 でもそれが普通。 普通であるということは。 人の限界に起因する、理不尽で不完全なルールに身を置くことでもある。 ……優しいゆりかごであるはずがない。 ことに閉鎖空間では、正常な倫理さえかすむ。 粗暴なことが日常と化しやすい。 たちむかうには、強固な自我。 揺るぎない自己のシステムが必要だった。 ……彼女のような。 さて。 妻は慰みものにさせられ、妊娠させられたり堕胎させられたりした。男たちを悦ばせる方法を、たくさん身につけさせられた。 彼女は笑わなくなった。 使用人の仕事にも、参加しなくなった。 衣類の着用を禁じられると、彼女は諾々〈だくだく〉と従った。 彼女は刺青を彫られていた。 卑猥な刺青だ。 性器を指し、その所有を夫ではないと示した。粗暴な人々は、その方面において際だって有能ではあった。 徐々に心も沈む。 夫は最後の手段に出た。 妻を連れて逃げ出したのだった。 三日で連れ戻された。 夫は殺された。 妻が輪姦されている脇で。 死体は庭に埋められた。 男たちはゲラゲラ笑いながら、桜の木の根本に埋めたのだ。 とまあ、倫理の壊れた連中だった。 ある時、一人の男が家族を連れてやってきた。 新キャラの登場。 幼児性愛者だった。両刀とサドという二つのオプションをつけていた。 サドなのでSと呼ぶ。 俺はSに目をつけられた。 再び女児の格好を強いられ、夜会に参加させられた。 今度はお茶ではなく、Sの欲望の相手をした。 Sは人にさせるのも好きだった。 女児のような俺を、ノンケの男に相手させた。 冗談半分でやる者が大半だった。 たまに覚醒してしまう者もいたが。 夜会では、どんなえげつないことをするかが、目立つのポイントだった。 小学校のいじめとかでも、似たようなことが起こる。 集団の中では、かなりの高確率でこういうことは発生する。 ま、デメリットというやつだ。物事にはメリットデメリットが必ずある。一義的な善し悪しを越えてだ。 やがてSのSっぷりはエスカレート。子供を連れてきた。 Sの息子だ。 学校ではいじめっ子としてならしていた……らしい。乱交の雰囲気に圧倒されていたのも束の間、俺を見て嘲笑った。異常興奮からか。促されるまま、むしろ積極的に、そいつは参加した。血を引いているようで、すぐ才能を発揮しはじめた。早熟な精通と重なっていたせいもあるだろうか。 じき夢中になった。 俺は皆に笑われた。 笑われながら、何週間も。 俺は攻撃を受け続けた。 太一「その息子ってのが、豊なんだよな」 霧「……………………」 霧は反応できていなかった。手の震えは止まっていた。落ち着いた……わけではなかった。愕然とした表情で、俺を見ている。矢尻が俺からそれていることも、気づいていない。 太一「で、読めてたかも知れないけど、Sってのは新川のイニシャルでもあった」 霧「……な、なにを言って……?」 半笑い。感情さえコントロールできていない様子。 太一「あいつも子供なのにあんなこと知っちゃってさ。もうまともな人生にはならないって思ってたよ。末は変態かジャンキーかってさ」 霧「嘘だっっ!!」 金切り声。 霧「嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ!! 嘘つかないでよ! 気でも狂ったの!? そんなでまかせ……」 太一「事実だよ」 再び霧の手は震え出す。 霧「そんなことあるわけない! 豊がそんなことしていたはずがない!」 太一「そんなことあるし、豊はそんなことをしていた。一番張り切ってたぞ」 笑う。 太一「まあ子供だから、大人の女を強姦するってのはきつかったんだろうな。アソコだって子供にはショックの大きな———」 霧「黙って!!」 張り裂けそうな声。 霧「そんな話、聞いたこともない! ずっと暮らしてきて、そんな話があったなんて。ありえない……考えられない———」 太一「記憶喪失」 ぴたりと霧は口をつぐんだ。名探偵になった気分だ。 太一「謎はとけまくってんだよ、霧ちん」 霧「……それは……記憶がないのは……」 太一「あと俺、あいつがどうして脚を怪我したのか知ってる」 霧「……え?」 太一「その場にいたからな」 霧「……じゃあ……先輩は……それを知ってて?」 太一「いんにゃ? 俺は豊が生き延びたなんて思ってなかったし……豊って名前も忘れてたよ」 太一「……あいつと出会ったのは偶然だ。俺も女装させられてたし……向こうもわからなかったみたいだけど」 だが豊は生き残った。 太一「でまあ、いろいろあって俺も解放されて……紆余曲折あってここに来たわけだけど。考えてみれば当然だよな。豊も俺も、あれで心が壊れないはずないんだ。出会うのは必然だったのかな」 霧「……そんな……残酷な人じゃない……信じられない」 太一「豊のことに気づいたのは、親しくなったあとだよ」 霧「……だから……殺した?」 ま、もうごまかしはきかないだろう。俺も、吐き出したくなった。 太一「すぐに殺意がわいたわけじゃない。過去のことだしな」 霧「だったら……!」 流れが逆転しはじめていた。感情のうねりは打ち寄せた波、俺を湿らせて引き返していく。 霧。アタックしてきたのは、おまえの方なんだからな。 太一「苦しんでいるのなら、見逃してやろうと思った。けど俺とつるんでいる時のあいつは、幸せそうだった」 霧「……っ!! あの日……わたしに質問した……幸せかって……?」 太一「よく覚えてるな。そうだよ。そーいう意味だ」 今再び、同じ問いを投げかける。 太一「なあ霧……豊は、幸せだったのかな」 ありがちな問いかけ。けど。意味はまったく逆だった。 霧「……つらい思いをしてきたんです! 親族に邪険にされて……荒れて……」 太一「本当にずっとつらかった? 一瞬でも、幸せな時間はなかった?」 霧「それは……」 太一「あっただろうが」 霧は答えない。うつむく。武器も下を向いている。敵意も殺意も萎んだ。枯れた花。細い体に、疑念という毒素が満ちる。 太一「そりゃそうだろうさ。昔しでかしたことを綺麗さっぱり忘れれば、心もスッキリサッパリだ。いくらだって幸せになれるさ!」 太一「だから思い出させてやった」 霧「……やめて……」 霧は耳を塞ごうとする。 太一「塞ぐな!」 手は止まる。 太一「よく晴れた日だったよ。おまえが見たとおり、あの時の屋上ですべて話した」 霧「……う……」 太一「あいつは言った。どうすれば許してくれるって? 許すも許さないもない。犯した罪は永遠にそのままだ。触れることなんてできない。変質させることもだ。俺もそこを責める気はなかった ……ただ、一つ疑問があってさ。問いかけたんだ。なあ、ひとつ質問なんだけど……どうして今すぐにでも死なないんだ?……って」 霧「ああぁ……」 太一「そしたら……あいつ本当に自殺しちゃったんだ」 霧は崩れ落ちた。その脇にしゃがみ込む。俺の顔には、憫笑が刻まれている。 太一「いずれにせよ、真実は一つだけさ」 あと一押しで、砕ける。知っているのに、俺は。耳元に囁く。本物の刃物を突き立てるために。 太一「おまえの兄さんは薄汚い最低のレイプ猿だ」 霧「……………………」 プツン、と。霧の内部で糸が切れるのがわかった。決してもう繋がるまい。五分ほど静かな時が流れた。霧は泣きもしなかった。涙はストレスを体外に流すのだという説がある。 霧は泣けない。 ……深く絶望が沈殿してしまって。心の底にたまり、胸中の澱は沈殿していく。俺は優しく待った。 すぐ近くで。 長い時間。 霧「……どうして……」 太一「ん?」 霧「どうして……言わなかったんですか」 太一「霧に?」 霧「……はい」 太一「霧があまりにも豊のこと、慕ってたから。それがまたすごく純粋でさ。ピュアというか、儚いというか。けど……磨かれてなかった。錆びついてた。中途半端だった」 霧「……?」 霧には理解できていない。当然か。 太一「脆いくせに攻撃的で。そういうの、俺は好きなんだ。わかる? 霧のこと、好きなんだよ」 霧「……先輩……が? 嘘……」 太一「俺さっきから真実しか言ってないじゃん」 霧「だって……おかしいです……豊のこと恨んで……じゃあわたしのことをどうして?」 太一「恨んでなんかない」 霧「……え?」 太一「それよりさ、霧はずっと俺のこと、人殺し扱いしてくれたよね」 表情が翳る。 霧「……それは……しょうがなかった、から……誰も本当のことなんて教えてくれなくて……自分で考えるしかなくて。それに……まだ信じられないです。あの豊が……」 太一「子供の倫理観に、全能的なものを期待する方が悪い」 教師然と言う。 太一「おかげで蹴られたり嫌われたり大変だったぞ」 霧「…………」 長い沈黙。霧の中で、精神状態が応急処置されるのがわかる。方向が定まる。 霧「……どうしたら……?」 太一「はぁい?」 霧「どうしたら……いいんですか?」 太一「どうかしたいの?」 霧「だって……わたしは、わたしたちは、先輩に、不当な……」 わたしたち、か。豊の責任まで背負って。 太一「そうだねぇ」 どうしようか。 霧「あやまったら、許してくれますか」 太一「別に謝らなくてもいいけど。そうだな、じゃあ……俺の言うこと、なんでもきく?」 霧「……」 コクン。首を下方に振る。霧の頭に手を置く。そのまま側面を撫でつけ、耳に指を入れる。 霧「ん……」 どうせあと一日だけの世界。ほつれて果てよう。もう、何者になる必要もないのだから——— 太一「本当に?」 霧「……それで……許されるのなら」 太一「どっかのランプの精みたく、願い事は三つまでとか言わないよね?」 霧「……はい。わたしに……できることなら」 弱気になっちゃってまあ。 太一「俺はマニアだから、霧のUSED制服をよこしなさいとか要求するかもよ?」 霧「……は……い……お好きに」 うおー。 可愛いー。 太一「身につけている下着と着画もダゾ」 霧「……そんなもの、欲しがる……」 涙ぐむ。が。 霧「……わかり、ました……」 ……愛奴隷爆誕。 まさか本当にそんなものが持てるとは。 太一「生きてみるものだ」 しかし残り時間はあと一日。 太一「……やばい」 急がないと。 俺は性急に次のステップを目指した。 太一「じ、じゃあ、Hなことを強要しようかな?」 霧はびくりと震えた。 霧「……どのくらい……えっちなことを?」 太一「ええと……」 太一「肉肉しい感じで、かな」 霧「……は?」 太一「き、霧が俺を憎々しく思っていたことにかけてねっ」 強引すぎた。 霧「わたしを……その……抱くんですか?」 太一「み、未定だ」 抱くに決まっていた。 けど言いにくい。 太一「とりあえず、そこに立って」 霧「い、今から?」 時間はないのだ。 可及的速やかにドエロシーンにGO。 教壇に立たせる。 太一「じゃあ、これからエロいことをします」 霧「……っ」 霧は無言だ。 羞恥で耳まで赤い。 これからどんな破廉恥体験を強いられるのか、不安そうにしている。 俺も不安だった。 人間一人を公認で好き放題するというのは、けっこうプレッシャーがあるものだ。 弱気モード入りつつある。 さっきみたいな強気モードは短時間しかもたないのだ! 太一「さ、さあ、霧」 鬼畜トークも拙い。 太一「ええと……じゃ、まずは告白タイムだ」 霧「告白?」 太一「俺が今から質問するから、ちゃんと答えるんだぞ?」 霧「は、はい」 太一「えーと……初潮が来たのは?」 霧「……じゅ、13です」 太一「そう」 霧「……」 太一「……」 会話が続かん……。 もっと大げさに驚いて恥ずかしがらせなければイカン。 太一「13で生理か! ずいぶん早熟だな!」 霧「……え……そう、ですか?」 太一「この淫乱Dカップボディが……って、そ、そうじゃないの? 13ってはやくないの?」 弱気な俺。 霧「わかりません……あんま人に言うものでもないので……」 霧「あと……Dカップじゃないので……」 太一「ううむ」 質問を変えよう。 太一「はじめて男をくわえこんだのはいつだ、ん?」 霧「……た、たぶん……これから」 そうだった。 他に女の子の恥ずかしがりそうなこと。 太一「そうだ、自慰だ! 自慰はどうなのだ! 週に何回するのだ?」 霧「じいって……なんですか?」 太一「後ろの味まで知っているとはこのミス・セルフプレジャーが……って、え、今なんて言った?」 霧「じいって?」 俺はフォフォフォと笑った。 太一「ご冗談をお嬢様」 霧「……?」 太一「……いやだから……オナニー」 霧「おなにい?」 太一「しらないの?」 霧「……はい」 性にうとい属性か。 太一「ひとりえっちといえばわかるか」 霧「あれのこと……ですか」 太一「どうなのだ」 霧「あ、あります……」 いいぞ。いい感じ。 太一「フフフ、週に何回だ?」 霧「今までの人生で二回だけ……」 太一「週六とはまたずいぶん熱心なことだな週休二日制をも返上する勤労っぷりにボーナスを出してしまいそうだぞこの猥褻フロ淫乱イン(フロイラインとかけてる)……って、人生二回っ!? マジか!?」 叫ぶ。 霧「は、はい……」 太一「どうしてそんな少ないんだ! 貞淑娘かおまえは!」 霧「……そ、そう言われても……あまり、気持ちよくなかったし……」 太一「がーん!」 無萌。 いかん、どうも調子が出ない。 太一「……よ、よし。次のステップ行くぞ次」 霧「は、はい」 太一「小粋な笑(ショウ)タイムは終わった。ここからは本番だぞ。おまえの恥じらいと俺の肉欲、どちらが本物か試されるんだ」 霧「???」 うむ。俺も言っててわけわからん。 だが、行くぞ! 太一「ス、スカート……マイナス……キック……イコール、何だ?」 霧「……マイナス? キック?」 太一「以下の設問に答えよというやつだ」 太一「スカート−キック=?」 霧「え、えっと……む、難しいですね……」 太一「霧は、俺がスカートめくりしたら蹴っただろ。だから……」 霧「普通、蹴ります……」 太一「ふ、普通そうなのかな?」 霧「スカートをめくりたい、んですか?」 太一「いや、霧がめくってくれ」 霧「い?」 太一「自分で見せるんだ。さあ!」 霧「自分でって……」 太一「急ぐんだ。時間がない!」 霧はスカートを押さえつけるようにして逡巡していたが、やがて覚悟を決めた。 緞帳があがるほどのスローな動作で、スカートをたくしあげていく。 太一「……おお、ぱんつだ……」 苦労した分、喜びも大きい。 霧「も、もういいですか?」 太一「何を言う! まだまだ序章ではないか!」 太一「エンディングまで、長い道のりが待っているぞ。そら、あげたまま保持するのだ」 霧「こ、こんなこと……おかしい、です」 太一「いい下着だな」 霧「……どうも」 太一「よく似合ってる。実に霧らしい、清楚さと若々しさが同居した履きっぷり。若鮎のような両脚の付け根で、丸みを帯びた臀部をしおらしく包み込む構成はすがすがしくあり、人に清涼感を与える佇まい、大変よろし」 …。 ……。 ………。 太一「どもー」 美希「……お、おせえ〜」 屋上に戻った。 美希「あ、霧ちんは連れてきたですね」 太一「きたともさ」 見里「なにやら……つやつやしているような……」 太一「つやつやですさ」 美希「……どうしたの、霧ちん?」 霧「え、ううん、なんでもない……」 美希「生理終わったんでしょ?」 霧「お、終わったけど……」 もじもじと脚をすりあわせる。 見里「……顔色が優れませんね、平気ですか?」 霧「平気です。ちょっと、疲れが……夏ばてして」 太一「それはいかん。夏バテ解消には俺特製白汁を飲まないとだめだ」 水筒を取り出す。 見里「ありがとうございます、ぺけくん」 水筒を受け取る。この特製白汁は一見したところただの乳酸製品だが、隠し味に素敵な成分が入っているのである。 美希「しろじる?」 見里「あ、あれはなんでしょう?」 太一「えっ?」 空を見る。なんだUFOか? アダムスキーか。 見里「…………どぼどぼどぼどぼ」 太一「なにもありませんよ?」 見里「ふう、ごちそうさまでした!」 カラの水筒を返された。 太一「……もう飲まれましたか」 見里「ええ、三人でわけてたっぷりと」 美希「……え? いつ?」 太一「はははは」 見里「ふふふふ」 太一「あはははははは」 見里「ふふふふふふふ」 よかったよかった。 美希「あの……わたしには捨ててたように見え……」 みみ先輩は美希を抱きしめた。 美希「むぐぐぐぐっ!」 美乳固めだ。 太一「……捨てた?」 見里「さあ、見て下さいな! だいぶ準備が整いましたよ!」 連れて行かれる。 太一「は、はあ?」 美希「霧ちんさあ」 霧「うん、なに?」 美希「……なんでもない」 霧「?」 背後の会話。少し気にはなったが、意識はたちまちテントに向いた。 太一「あ、らばー」 桜庭「ラバー。つまり恋人のことだ」 桜庭はテントの下にいた。 太一「友貴は?」 桜庭「シスコンがこうじて帰宅した」 太一「……さうか」 桜庭「配線だけは整えていった。ヤツは仕事人だ」 太一「うむ」 ま、ここまできたらもう心配はいらないか。 見里「休憩しましょうか。喉も渇きましたし」 先輩が小型冷蔵庫からお茶缶を取り出す。 太一「……え? 喉が乾いたって?」 見里「ほら、あまったバッテリーで文明の利器が復活です」 部室にあるものより小型の冷蔵庫だった。 太一「へー」 友貴だな。 見里「久しぶりに冷たいのみものですー! はい、あなたの分ですよ」 太一「それはいいんですけど……先輩さっき俺の白汁……」 見里「かんぱーい!」 太一「は、はあ、かんぱい……です」 足りなかったのかな、白汁。 乳酸飲料にレモン汁をまぜた特製ドリンクなのに……。 まあ、いい。テントの下、日陰とお茶でほっと一息。 太一「ふいー、生き返るね、霧ちん」 霧「え……?」 太一「水分をたっぷり出したあとだけに」 霧「けほっ、こほっ! せんぱいっ!!」 太一「ははは」 美希「先輩たちもおしっこしてたんですか?」 太一「二人で立ちションしてたんだ。どっちが飛ぶかって」 霧「してないですっ! できないですっ!」 美希「そ、そんな楽しそうなことをわたしにナイショで……」 霧「美希……それは全然楽しそうじゃないから……」 美希「そーかなー?」 近年、森林破壊並に急速にすれてきているが、美希は基本的にウブなはずだった。 ……あれ。 太一「それにそんな暴れてると、見えるぞ霧ちん」 霧「……………………」 スカートのはしを押さえて、大人しくなった。 太一「ははは」 桜庭「ところで太一、明日の放送だが……部長先輩に言われて原稿を書いてみた」 太一「ほう、貴様がそんなことを?」 桜庭「ちょっと見てくれ。意見が聞きたい」 太一「……」 読めなかった。 太一「……何語だ?」 桜庭「万が一傍受されても意味がわからないよう、多重に暗号化してある」 殴った。 太一「意味ねーよ!」 見里「……あああ、桜庭君に振った時間がまるまる無駄に……」 太一「SOSで意味不明にしてどーすんだ!」 その時。 太一「あれ?」 風鈴が鳴った。 太一「風鈴じゃないか」 桜庭「……つけた。これから、みんなでここにつるむようになるのなら、と思って」 太一「…………う」 たまに気のきいたことをする。人類もいなくなって。希望もあるかどうかわからない。なのに、本当に……のんきなヤツだ。 太一「つるむともさ」 桜庭「だな」 見里「……お願いします」 太一「いつまででも」 嬉しそうに、先輩は目尻を下げた。 美希「にしても霧ちん元気ないねー」 霧「そ、そう? そんなことないよ?」 太一「……」 やっぱり無理してるのかな。真実も行為も、霧には負担すぎたのか。 けど。 あと一日しかない。世界は。霧を癒してやる手段も可能性も、俺にはないのだ。 だから。 だから——— 自宅。 いつも寂しい空間に、今日は華がある。 太一「さ、入って」 霧「お、お邪魔します……うわあ」 混沌を愛する俺の部屋だった。客はたいてい驚く。 太一「座りたまへ」 霧「……どこに座れと」 太一「はい」 トンボを渡す。 霧「……はいって」 太一「座りたい場所にスペース作ってね」 霧「……………………」 自己責任。霧はトンボをかけて作った隙間に、ぎこちなく正座する。 霧「……男の人って」 太一「ちょっと待っててねー」 階下に降りてトマトを持ってくる。 太一「はい、ビタミン」 霧「……どうも」 おどおどと、トマトを囓る。 太一「リラックスしていいよ。ずっと住むんだし」 霧「……ん」 ぴた、と動きが止まる。 霧「ずっと……ですか」 太一「いや?」 霧「……わかりません。もう先輩は、わたしの初めての人なので……」 うわあ。 霧「それに、わたしはこれを償いだと思ってます。豊とわたしの、二人分の」 豊、か。 霧はどこまでも、そういう者であり続けるんだろうな。 豊。豊。豊。 豊。 太一「……トマト、食べさせてあげようか」 霧「え?」 霧のトマトを取って、かぶりつく。 それを幾度か噛みつぶし、キスをする。 霧「んっ!?」 唾液とともに流し込んだ。 霧「……ん、ふぁ……んくっ、ん、んんんん」 抵抗は最初だけ。 太一「おいしい?」 霧「……はい」 太一「じゃもっと食べなよ」 幾度か繰り返す。 終わる頃には、霧は上気していた。 太一「霧は俺だけの霧だよな」 霧「……そうですね」 太一「でも、悲しそうだよ」 そう言うと、霧は無理をして微笑んだ。 ……引きつったようにしか見えなかった。 抱きしめて、そっと押し倒した。 霧「あ……」 食べかけの果実が床に落ちた。 深夜の祠は不気味だ。 日記を収める。 六冊目のノート。 太一「そうか」 ふと考える。 日記として使っていたノートがここに安置される。 明日以降に世界は巻き戻される。 だからノートが消える。 月曜日に日記を書こうとして、見つからなかった道理である。 祠の内部は、本当に巻き戻しとは違う法則に切り分けられているらしい。 太一「なるほどね……」 日記は置いた。セーブしたんだ。最後の日記を書いた瞬間から、俺の……俺個人だけの人生がはじまる。やり直しはない。 たった一日、あるかないかの人生だ。好きなように生きて消えようと思った。 CROSS†CHANNEL そして日曜。 快晴。 日記にはない未知の領域でもある。この日、どのように世界が終わるのか、俺は知らない。一週間……短かった。霧を攻略するためだけの日々になってしまった。 それでも。 部活を立て直せたのは、僥倖〈ぎょうこう〉だ。 続く俺がノートを目にすれば、立て直しのヒントになるはずだった。 どうか幾度でも、幸せな時をと願う。 この救われない箱庭の中で。 太一「まだ誰もいないや」 見渡す。広い屋上にパイプテントと、機材。そそり立つアンテナ。電波一つ飛び交わない青空。 霧「……青い」 空を見あげて、霧。 太一「雲一つないな」 霧「はい」 だが霧の面差しは、まだどこか曇天を思わせた。二人でフェンスに張り付く。会話もなく並んでいた。やがて。 見里「おはようございます」 皆がやってきた。 友貴「……OK」 みみ先輩には決して話しかけなかったが、友貴はやってきた。 太一「サンクス……いつはじめます?」 見里「ええと、特に決まってはいないので、今からでも」 桜庭「DJ」 太一「うむ、DJ……やるひとー」 誰も手をあげなかった。 太一「みみーせんぱいは?」 見里「えっ、私ですか? だめですよ、だめだめ、無理です、噛みますっ」 太一「美希は?」 美希「……ほよ?」 ビーフジャーキーを引きちぎっている最中だった。 美しくない。 ……クビ。 太一「友貴」 友貴「いいけどいくら出すの?」 太一「…………」 金とかいう問題じゃない。 太一「桜庭……」 桜庭「俺に理路整然としたことが話せると思うか?」 太一「……よくわかってんじゃねぇの。じゃあ……霧か」 霧「……えっ」 顔色が変わった。 瞬時に嫌な汗をかいている。 太一「DJ」 霧「あっ、だめっ、無理です、人前で話すなんてっ」 太一「なぁに。どうせ全滅してるから平気」 友貴「希望はどうした!」 太一「げふっ」 チョップされた。 霧「まずいですっ、だめですむりです……奇妙なことになりますっ」 怖じ気づきまくりダネ。 太一「奇妙な霧ちんも見てみたい」 手を引く。 霧「だめーっ!」 腰を引く。 太一「……パンツ見えるぞ」 霧「っ!?」 慌ててスカートをおさえる。体勢の崩れた霧。 引っ張っていく。 太一「DJデビューおめでとう」 霧「たすけてーっ!」 ダメか。解放する。霧はさっと美希の背後に隠れた。精神的小動物め。 太一「わかった……やるか」 俺しかいなかった。 友貴「いつでも平気だよ」 何を話そうか。思いつかない。意味のないSOS。けど誰もそんなこと思ってはいない。自分の体が、他人の感覚で、勝手に動く。 椅子に座り、マイクを握った。 自動的な俺だ。 いつだって俺は自動的だったように思う。周囲との接触が、今の俺を形作った。 太一「ええと……この放送を聞いてる生存者の人、いますか?」 太一「こちらは群青学院放送部です」 太一「生きている人、いますか?」 太一「こちらは群青学院放送部、生存者は八名」 太一「生存者は八人」 人は大切だろう。家族や友人は大切だろう。自分が人である限り。 太一「……全員、健康状態は良好です」 人でなくてもいいのなら、孤独という生き方もある。 でも俺は人が良かった。本能じゃなくて、理性の怪物になりたかった。そうすれば、もっと完璧に無害なものになれたはずなのに。足りなかった。接触が。触れあいが。 太一「ええと……」 家族は。 ……いない。 箱庭の楽園で、空気みたいに薄い人々との交友。 ……顔さえ忘れそうだ。 曜子ちゃんとの出会い。 ……彼女は俺を他人とは見ない。 新川の人々。 ……人間が敵だということを学ばされた。 幼少期の、もっとも多感な時期、俺は人に触れなかった。 太一「昔、俺は罪を犯しました」 リン、と鈴が鳴った。六対の視線が集まる。 太一「友達を、死なせてしまいました」 桜庭「……太一?」 太一「直接手を下したわけじゃないけど……結果的に死なせました」 太一「その友達は昔、俺を傷つけた人間の一人で。記憶を失って、俺の前にあらわれました。記憶とともに罪も消えてしまったかのように、振る舞って。最初は俺も気づかなかったんです。何年も前のできごとだったんで」 空気が変わる。六人の人間の、不安や疑問が渦巻く。じき、落ち着くだろう。つらい空気になるかも知れないが。 太一「けどある時、はずみで気づきました。実際、そいつに受けた傷なんて、今の俺には全然たいしたものじゃないはずでした。不肖黒須太一、酸いも甘いも噛み分けたヤングアダルトを目指しております。けど」 霧が身じろぎした。口元に手を当てた。 太一「けど俺は、どうしてもそいつを友達として見ることが、できなくなりました」 霧「……う……」 美希「霧……?」 太一「ものみたいに、見てしまうようになりました。許せない、という感情論とは違うと思うんですが。俺の中で、そいつの価値が変わってしまったのは確かです。いや……変わったなんてものじゃない……無価値になったんです。興味が失せたんです。そいつが自分の記憶を取り戻した時、許してくれと言いました。もしかしたら……許してくれなんて言わなければ、結果は違ったのかも知れません」 霧「……!」 太一「どうやったって、過去は改ざんできないからです。罪は受け入れるか敵視するか、それだけだと思います……そいつの罪自体は……別に、たいしたことじゃありませんでした。いつもみたいに冗談で流して、友達づきあいしていけばよかったんです」 霧「……せん、ぱい……」 涙。 涙か。 それもまた、俺にはないものだ。 太一「どうしてその時、気にするなよ、って言ってやれなかったのか……自分でもよく考えます……それは俺が、いびつだからです。いびつな心をしているからです。理性が足りません。けど理性を培うためには、他者が必要です。せめぎあいなくして、育つものではないと思います。けど俺は、せめぎあうための友達を傷つけてなくしました。……それが……俺のジレンマです」 友貴「……」 桜庭「……」 太一「記憶がなくなっても、過去に起こったことは消えない。けど傷つけられても、傷つけても……向き合った者同士でいられたはずなんです」 霧「うっ……く……」 嗚咽。 見里「……佐倉さん」 ここにいる者たちは悟っているだろう。豊と俺のことについて。誰も声をかけてこない。止めもしない。 太一「……自分がこわくなりました。けど自殺はできません。自決だけは。いっそ人がいなければいいと思ったこともあります。傷つくたびに、そう思います。世界から人がいなくなって……一週間。もしかしたら自分のせいかなどと、考えたこともありました」 見里「……」 美希「……」 太一「ろくでもないですから、俺。そんな俺と、いつもつきあってくれてる仲間のみんなには、いわゆる感謝というものをしてなくもないです」 桜庭「どっちだよ」 珍しい桜庭のツッコミ。 友貴「否定の連続」 友貴の機械的なツッコミ。 太一「……自分のためでいい。自分のために、人を大切にして構わない。明日……少しは、ましな自分になるために。俺にはまだ仲間がいます。築き上げることは、心を傷だらけにすることでもあります。つらいばかりで、美しくないことです。でも人には人が、必要だと思いました。だから、この放送を聞いている人もまだどこかにいると信じます。こちらの住所は———」 無線連絡の際の手順も告げる。 これでよし。からっぽになるまで話せた、かな。 ……まあこんなものか。 太一「こちら群青学院放送部、生存者は八名。また来週」 終わった。 ほう、と息をつく。 拍手。 まずみみ先輩。そして続いて他のみんな。 太一「……」 茶化す気にはならなかった。気恥ずかしさに包まれる。その甘い拷問を耐えるため、俺は頬をかいた。 見里「はい、よくできました」 太一「……はぁ」 桜庭「来週、なのか?」 太一「ああ、まあ……適当に」 友貴「いいんじゃないの。細かいことは」 桜庭「……だな」 美希「かっこよかったっすー」 使い捨てカメラでバシバシ撮ってくる。 太一「……やめれー」 美希「照れてる照れてる」 太一「うーせーっ」 そして。 霧「……先輩」 霧が立った。何を言うのだろうか。緊張して待つ。 霧「お」 お。 霧「お疲れ……さまでした」 頭を下げた。 太一「…………」 感慨が湧き起こる。言語化はできない。不可解な、それでいてほっとする、そんな感覚だ。心の水位が増した気がする。 微量。 太一「……さんきゅ」 空が一瞬白んだ。 太一「……!」 ああ、このタイミングか——— 急におそろしくなる。けど取り乱すわけにはいかない。霧に抱きつく。膝をついて、腹部に顔を埋める。 霧「きゃっ、ど、どうしたんですっ?」 美希「おわ、だいたんなことを……」 見里「ふ、不純異性停学……」 桜庭「斬新な言葉だ、部長先輩」 友貴「……やっぱ太一はエロいなぁ」 太一「気が抜けたんじゃー! 慰めてくれー!」 恐ろしい。自分がなくなるのが恐ろしい。セーブは土曜の夜が最後。今日のこの喜びも懺悔も微量の心の成長も、全部無駄になる。こわい、こわい、こわい。 霧「……先輩……泣いて?」 耳鳴り。胸に埋めた双眼の端、世界が白んでいく。白んでいく——— 太一「……畜生」 往生際の言葉となった。 CROSS†CHANNEL